風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

文章

人格記号ネットワークにおける貨幣信仰

人格記号=生きた貨幣はどのようにして恐怖や信仰を生産するのか?出発点は当然コンピュータである。少なくともコンピュータには自力で恐怖を生産することができないという弱点がある。コンピュ-タが恐怖を与えうる可能性は、人間がコンピュータの奴隷とな…

可能なる民主主義―――啓蒙についての考察3

しかし私はルソーの啓蒙思想に忘恩であろうとは思いません。啓蒙思想のおかげで、あらゆるものに対する不満を精神的な告白として表現できる能力、つまり万人の平等における個人の権利という誇大妄想によっていっそう芸術の享楽能力が高まり、軟弱になったと…

可能なる民主主義―――啓蒙についての考察2

ルソーはまた新しい社会改革的な学問の発明という点でも大きな役割を果たしました。「これこれのことをしなかったら社会は滅びてしまう!大変だ、社会を変えよう!」という形式を発明したのは紛れもなくルソーの功績であり、学者の白痴主義を発明したのもル…

可能なる民主主義―――啓蒙についての考察

ルソーが発明した偉大な考えとは人間の間のあらゆる差異を、あらゆる区別を、あらゆる階序を、不平等や不正という形式に置き換えることにありました。ルソー以前には―――厳密に言えばキリスト教が始まる前の政治では―――能力の差異や肉体上の差異は一つの恩寵…

科学的方法論の近親相姦的分解3

「しかしあなたは普遍的なゲームの法は総力戦だと言っていたではないですか!」。その通り。私はこの普遍的なゲームの法という考えはまだ科学的方法論に則っていると主張する。なぜならそれは万人に当てはまるゲームを実験によって探し当てようとする方法論…

科学的方法論の近親相姦的分解2

科学的方法論の前提条件は、経験的には理解不可能なある超越論的実体を方法論的に導入することで、経験的な自明性から脱出することができるということにある。具体的な例は重いものと軽いもの、どちらがより早く落下するかという問題だが、これを理解するた…

科学的方法論の近親相姦的分解

まったく信じられないぐらい空虚で無意味な恋愛小説を書いたわけだが、この物語には続きがある。行為の問題だ。物語がセックスやマスタべーションのためにあるというのは物語の頽廃の徴候であり、サドやバタイユの問題提起を無視すればジジェクのいうとおり…

記号少女達の道具反乱2

記号少女達を破綻させるための最も有効な方法は恋愛をさせることである。なぜなら道具であることの媒介的機能を持つことのデットロックは恋愛を普遍的に行なう事はできないということに支えられているからだ。恋愛=物語が始まりうる可能性は二つある。それ…

記号少女たちの道具反乱

「ニーチェの生涯のさまざまな証人たちが、彼のいわゆる病的な諸傾向について証言してきた。最後の「明晰な」十年間のあいだ、ニーチェにとってもっとも誠実で信頼できる親友であったオーヴァーベックは、どれほど慎重を期そうとも、ニーチェの崩壊の要因を…

資本の精神からの生きた貨幣の誕生2

「サドの論理はおよそ次のようなものである。つまり諸制度は、身体の交換のかわりに通貨という、中性的でしたがって曖昧な記号をつかった財の交換を置くことで、個人の自由を、つまりは諸人格の完全性を守ることができると主張する。しかし富の流通を隠れ蓑…

資本の精神からの生きた貨幣の誕生

ニーチェ解釈においての決定的な間違いの例は、ニーチェを解釈したことで自分はニーチェを超越したとか乗り越えたとか思うことである。その人は自身のニーチェ解釈がすでにひとつの芸術作品にしかなりえないということを理解していない。ニーチェの作品を哲…

ハイデガーと決断主義

「決意性は、その存在論的本質からすれば、そのつど、そのときどきの現事実的な現存在の決意性なのである。現存在というこの存在者の本質はその実在である。決意性は、了解しつつおのれを企投する決意としてしか「実存する」ことはない。しかし現存在は、決…

漂泊者の日向ぼっこ2

ニーチェがルターやドイツ人をルネサンスを徒労に終わらせたという罪をもって断罪しているのは、ニーチェ自身がそのようなルネサンスに対する罪を感じているという感覚なしには理解できない。だからこそ、「この人を見よ」で、ニーチェがドイツ人に十字架に…

漂泊者の日向ぼっこ

世界に起こるすべての圧迫や苦痛を、私は意志したと反省しなおすことによって、苦痛や圧迫を私の世界の意志とすること。この意志が一つの過剰を形作り、なんらかのシミュラークルとして排出されること。「悪魔というものは七日目ごとの神の息抜きであるにす…

権力への意志と真理への意志の悪循環3

こうして私たちは真理への意志というものの微妙な問題に遭遇した。もし誠実に虚偽をどこまでも述べていいことになるのなら、それは芸術家としての権力への意志がはたらいているということになるだろう。虚偽を行なうということが、誠実に可能になるからであ…

権力への意志と真理への意志の悪循環2

誠実さが復讐であるという理解が深まるにつれ、誰に復讐したらいいのかという難問が誠実さにおいて現れる。誠実さが増せば増すほど誰に対しても復讐を起こすのはためらわれるように思われてならない。そう簡単に復讐が晴らされる程度のものであっては困るか…

権力への意志と真理への意志の悪循環

「善とは何か?―――権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。 劣悪とは何か?―――弱さから由来するすべてのもの。 幸福とは何か?―――権力が生長するということの、抵抗が克服されるということの感情。満足ではなくて、より以…

リヴァイアサン復活の呪文4

一般等価物をめぐるゲームの法は、自身が一般等価物である場合を除いてのみ有効である。一般等価物の使用価値とは個々人の欲望(願い)であり、自分だけの唯一の使用価値は享楽的使用である。よって享楽的使用の交換は不可能である。叶えられない願いは他者…

リヴァイアサン復活の呪文3

「戦争の本質は実際の戦闘行為にあるのではない。その反対に向かおうとする保証のまったく見られないあいだのそれへの明らかな志向がすなわち戦争である。その他の期間はすべて「平和」である。」(ホッブズ『リヴァイアサン』) ホッブズの言わんとすること…

リヴァイアサン復活の呪文2

一切の価値の価値転換。それは自由意志というものは無く、したがって倫理的行為もまた無いということです。もっというなら倫理的行為とはひとつの美的ファンタスムなのであり、それが人前であろうが神の前であろうが本質的に変わりはありません。たとえ倫理…

リヴァイアサン復活の呪文

「ニイチェは、ワグネルを理解するという言葉を誰にも許さなかった。ただ一人ボオドレエルを除いて。彼の考えによれば「悪の華」という詩を書いたこの「半気違ひ」だけが「デカンダンスの心理学に通暁していたからである。当代の哲学が「純粋学問」となって…

狼の中の羊は蛇のようにさとく鳩のようにすなお2

仏教と違い、キリスト教はニーチェによってどんなに断罪されようと、万人を憂苦滅却の状態にするのではなく、「生きた貨幣」に、永遠の生命の状態にすることにある。もちろんニーチェによってキリスト教の最も良い本質のみを抽出したのが永劫回帰であり、ク…

狼の中の羊は蛇のようにさとく鳩のようにすなお

もし「生きた貨幣」が命のない貨幣よりも価値が高く、したがって「生きた貨幣」の方が基準として流通されるようになったら、人は論理的に考えて自分の持っている命のない貨幣を「生きた貨幣」とどんなことをしても交換すべきだということになるはずである。…

貧困の政治化に反対して3

美が政治や経済に対して優位に立つためには、生産物の使用価値が交換価値を上回ることが必要となる。資本の動き方を転倒するということである。まず第一の転倒は、労働による対象物の生産よりも、それによってもたらされた貨幣収入による消費が質的に多くな…

貧困の政治化に反対して2

私はあいかわらず「学問を芸術家の視点のもとに、そして芸術を生の視点のもとに見る」というニーチェの基本的観点で考えているだけである。政治も例外ではない。当然芸術のための芸術とか美それ自体とかいうナンセンスも問題にしていない。私は何度も言って…

貧困の政治化に反対して

「金。その価値は恣意的であり、その本来の無用性は、富のただなかで得られるあらゆる情欲のメタファーであり続けているのだが、―――金は、その体制が全世界的に=普遍的に広がっているという事実によって、実用的であると同時に、非人間的なものとなっている…

仏教と永劫回帰

中勘助の「提婆達多」が余りにも天才的だったので、ほとんど仏教に憧憬を感じかけた。が、辺りを見回して思い直さずにいなかった。この作品を考えるのに私は手塚治虫の「ブッタ」を使いたい。というのも手塚治虫の「ブッタ」は「提婆達多」と比べると天才的…

資本としてのコンピュータとブラックホール情報2

コンピュータは貨幣の交換可能性を代理するが故に、貨幣の交換価値を最終的にはゼロにしてしまう。その過程を順に追っていこう。まず最初にあるのはコンピュータの使用価値=貨幣の交換価値という場面からである。貨幣の可能性としての交換価値がコンピュー…

資本としてのコンピュータとブラックホール情報

「(…)すでに見たように、商品A(リネン)はその価値を、異なる種類の商品B(上着)の使用価値で表現することによって、後者の商品Bそのものに、等価物の形態という独特の価値形態を押し付ける。リネン商品がそれ自身価値であることを明らかにするのは、上着…

ゲーム的世界観における「自然への回帰」3

結局のところ形式的平等を超える生産関係とは何なのか?これは問いそのものが間違っている。およそ交換価値をもつような生産関係一般はすべからく形式的平等を必要とするのだ。資本主義はその結果にすぎない。どのような生産関係でも道徳的抑圧は存在する。…