風鈴神社

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科学的方法論の近親相姦的分解2

科学的方法論の前提条件は、経験的には理解不可能なある超越論的実体を方法論的に導入することで、経験的な自明性から脱出することができるということにある。具体的な例は重いものと軽いもの、どちらがより早く落下するかという問題だが、これを理解するためには「重力」という超越論的実体を導入しなければならない。ここで注意すべきなのは「重力」という概念はいかなる経験的カテゴリーにもないということである。これがデカルトやカントによって道徳や神の問題にも拡張されたというわけだ。ただしそのためにカントは「物自体」という学者の神を創造したのだが。科学的に言うと「原子」である。いまではもっとこまかくなっているがそれは無視しよう。重要なことはこの科学的方法論が有用性という価値判断に支えられているということである。「~でなくてはならない」という判断方式は本質的に科学の方法論であり、それの証明は実験によって行なわれる。実験によって理解できるのは二つのことである。まずそれが科学の理論によって再現することが可能であるということ。もうひとつはそれが何かの手段として利用可能であるということである。注意しよう。実験はそれが真理であるとか正しいとかいうことを少しも証明しない。証明するのは再現して利用できるということだけなのである。つまり科学に起源の問題を尋ねても無駄なのである。それは最初に導入した超越論的実体を前提とした世界観でどこまで論理的に考えられうるか、ということしか意味しない。前提がそもそも経験的に不可能な存在なのだから、それはなにも証明しないし理解することもできない。ただそれは「~でなくてはならない」というだけにすぎない。だからといって科学の方法論が有用性を持つというのは疑いを入れないことであり、それは産業の生産力増大と戦争によっておおいに「証明」されてきたのである。科学においてコンピュータが決定的なのは、コンピュータがこの科学の方法論を搭載した機械だということにあるのである。コンピュータは実験のための実験である。よって科学的方法論を備えた人間をコンピュータが手段にしてしまうのは科学の論理的帰結でなくてはならない。私が言いたいことは、新しい方法論を産みだすためには、なんらかの超越論的実体を前提とするのでなくてはならないという科学の方法論を美的表象の一つの手段として利用しようということだ。もちろんこの美的表象の方法論は最初から科学の超越論的実体に対する批判自体が内在的に織り込まれている。私が言いたいのは2×2=5などのような理解不可能なものを正しいと見做すような考えではない。ただ科学を科学以外の論理では正しいと認めるとは限らないというだけである。もう一つの致命的な考え、美的表象を科学的方法論で実験するということとは絶対に区別しなくてはならない。美的表象は実験するのではなく遊戯を行なうのである。つまり有用性も真理も基準としては扱わない。あるのは美についての知識ではなく、美を表現するための手段についての知識だけである。