風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

科学的方法論の近親相姦的分解3

「しかしあなたは普遍的なゲームの法は総力戦だと言っていたではないですか!」。その通り。私はこの普遍的なゲームの法という考えはまだ科学的方法論に則っていると主張する。なぜならそれは万人に当てはまるゲームを実験によって探し当てようとする方法論だったからだ。それに名前からしてカント的だ。この場合実験とはバトルロワイヤルのことである。問題を個人として捉えてはならないのだ。あくまで欲望の価値判断から考えるべきである。欲望によって付けられる商品の価値。だからこそ私は人間であってはならないと主張する。ただし人間を超越できる、とは少しも思わない。あくまで人間として認められないだけである。私はここでなにも食料を食べなくても生きていけるとか、まったくの無人島で一人で生活できるとかという意味で人間として認められないべきだと言っているのではない。そうではなく一人の人間として認められるべきではなく、独りの人間として認められるべきだと言っているのだ。だから実験ではなく遊戯なのだ。実験は暗黙のうちに人類のために、という但し書きがついている。たとえいかなる犠牲があっても実験によって知識を手に入れれば、人類が進歩するという前提が。おそらく有用性についてはそれは正しい。つまりますます人を殺しやすくなる、という意味で正しい。だから人類を絶滅できるようになれば二重の意味で正しいことになる。核爆弾とはその輝かしい成果であろう。コンピュータはそんなに馬鹿ではなく、人間を殺すのではなく一人一人の人間を平等な労働力、つまり産業的奴隷にする方がずっと有用で効率的であると心得ている。人間をますます効率的に運用する方法、つまり家畜にする方法がコンピュータの目指している未来である。人間を幸福にする方法とは人間を奴隷にする方法だとハックスリーは書いたが、それはまったく正しい。我々は「幸福の科学」なるものの正体をいいかげん見破っている。だからこそ遊戯―――労働ではなく―――なのだ。仕事で払ってもらい遊戯で消費する方法から遊戯で払ってもらい仕事で消費する方法。ゲームは役に立つものであってはならないのだ。ゲームで勝利する方法など考え出したら、それこそ敗北の一歩である。なぜなら超能力の問題において西尾維新が提出したように、もっとも強い超能力とは手段化されない能力であり、つまりは「愚行権」だからである。安心院さんのようなヘーゲル的「理性の狡知」を持ってきても何の役にも経たない。しかしその最終進化系である「空々空」は、戦争においては「最強」だが、それは科学的方法論において「最強」なのであって、美的価値としては文字通り「醜悪」になってしまうだろう。それではいったいどのように遊べばよいのか。とりあえず標語として言えば「ルールの無い世界では弾幕はナンセンスである」(ZUN『The Grimoire of Marisa』)ということになろう。しかし、一旦遊戯の規則として制定された法でも、それを手段として見做してしまえばひとつの普遍立法にしてしまうのに充分である。これを防ぐ手段は無い。明らかに遊びの手段を次々と考えていくしかないのである。私としては「普段は本棚に入れておいて、偶に眺めたりして心の糧となる」(同上)ような遊びを目指したいがいったいどうしたものだろうか。