風鈴神社

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資本の精神からの生きた貨幣の誕生2

「サドの論理はおよそ次のようなものである。つまり諸制度は、身体の交換のかわりに通貨という、中性的でしたがって曖昧な記号をつかった財の交換を置くことで、個人の自由を、つまりは諸人格の完全性を守ることができると主張する。しかし富の流通を隠れ蓑として、通貨はじつは身体の交換を、制度の名と富の利益のために秘密裏におこなっている。制度は完全なる怪物性を否認するのだが、その否認は裏返って事実上の売春肉体的および精神的な売春を生み出すのだ。そしてサドが想像したさまざまな秘密結社のすべては、次のようなジレンマ、身体の交換による諸存在のあいだのコミュニケーションかそれとも通貨という記号のもとでの売春かというジレンマを、浮き彫りにすることにあったのだ。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
私がクロソウスキーに反対していることは、おそらく生きた貨幣は人格記号として命のない貨幣の代理をそれ自体として増殖することで行なう事ができるのだから、他の産業的奴隷たちに飼育されるような自体は起こりえないだろうということである。飼育されるのは生きた貨幣の記号としての人格だけなのだ。生きた貨幣と産業的奴隷とを比べた場合、価値が高いのは明白に前者なのだから、同じ生きた貨幣以外に身体を享楽的に使用されることなどありえない。もし生きた貨幣同士の交換があるとしても、それは人格記号によって信者や奴隷や道具となった産業的奴隷の交換を通して起こるはずである。逆に言うと、生きた貨幣にとって自身を最高の価値とするためには他の産業的奴隷達を生きた貨幣にするための方法を教えたり行動することであるのだから、生きた貨幣同士のコミュニケーションは成立し得ない。それはコミュニケーションは誤解という観点からみるなら、ただの記号伝達になってしまうはずである。つまり身体交換によってはコミュニケーションは成立しないのだ。身体は二つで人格は統一化されたものは想像できるが、身体は二つで人格は二つの統一された人間は想像することができない。この場合、二重人格では意味がないからだ。おそらく生きた貨幣どうしなら身体的コミュニケーションが可能だとクロソウスキーが考えたのは男女の性的関係が対称的なものとして捉えられているからではないだろうか。しかし性的関係は存在しない。倒錯を持ってきても享楽が禁止されるか一方が他方を道具とするかである。生きた貨幣同士のコミュニケーションにはなりえない。そもそも生きた貨幣同士に恋愛関係などあるのか?つまり恋愛関係は何も解決していないし、依然としてあらゆることが可能であると同時に可能でないということだ。男は女で払ってもらうことに同意するかもしれないが、女は男で払ってもらうことには絶対に同意しないだろう。両性の同性愛の可能性を考えてもである。というのも性関係とはラカンによれば存在しない「女」を求めることであり、同性愛とは性的関係は存在しないということを前提とした上で、現在の規範とは別の性関係を求めようとすることだからだ。もし「女」が存在するのなら、すべての生物はその「女」に生殖行為を求めるはずである。ジジェクの言うとおり人間には二つの性があるのではなく、ひとつの全体性に対して失敗した二つの試みがあると考えるべきなのだ。もし複数個人間の性が必要なら、性は一つで、つまり持っているものと持っていないものとで充分であるはずなのだ。常に近親相姦の対象だけを払ってもらう場合を考えればもっと矛盾は明白になる。払ってもらえる対象は近親相姦の対象ではもはやありえないからである。