風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

狼の中の羊は蛇のようにさとく鳩のようにすなお2

仏教と違い、キリスト教ニーチェによってどんなに断罪されようと、万人を憂苦滅却の状態にするのではなく、「生きた貨幣」に、永遠の生命の状態にすることにある。もちろんニーチェによってキリスト教の最も良い本質のみを抽出したのが永劫回帰であり、クロソウスキーがそこから出した結論が「生きた貨幣」であると私は考えているわけだが、はたしてこれが命のない貨幣としての一般等価物を永続的にその価値として保証するのかは疑問がのこる。というのもまさに「生きた貨幣」には寿命があるのであり、たとえ「生きた貨幣」の制度が実現したとしても、それはたえず価値が変動していく状態になるだろう。そう考えると、この「生きた貨幣」の制度は抽象的な貨幣制度に比べるとあまりにも恣意的で不完全であるという印象を受ける。しかし、一度「生きた貨幣」が実現してしまえば、一般等価物としての命のない貨幣の価値を絶えず転倒し続けられるとは言うことが可能である。キリスト教を基にニーチェが普遍化したのはそのことである。もちろんこの場合でもコンピュータという一般等価物の存在は無視するわけにはいかない。間違いなくコンピュータは「心の貧しい者」であり、神と金の特徴を兼ね備えた「教会(銀行)」である。コンピュータの物質的基盤が高度な精密機械であり、電気というエネルギーを使用しなければならないという特徴は、人間にも言葉を変えれば当てはまるため絶対的な差異とはいえない。重要な差異は情欲の有無である。コンピュータは情欲を誘発することができるが、情欲を行使することができない。この非対称性は決定的であり、コンピュータが「生きた貨幣」として完全に定立することができない理由なのだが、コンピュータが情欲を行使すると想定することはできるのである。これは存在論的差異である。認識論的な区別はつかない。にもかからず情欲を行使できないという特徴は我々を空虚にする。よってここではコンピュータが絶対的に誰でも保有することはができるとはいえないことを根拠に、コンピュータの情欲の特徴は無償ではない点に焦点を絞るべきである。ただしそれには人間の生活の糧を無視して、人間の情欲が無償な存在であるという前提を導入しなくてはならない。ところでまさにこのことこそ、貧困の政治的問題として提出されている問題ではなかったか?生きた人間にとって情欲は生活の糧という基本的な有償さがあるのではないだろうか。もしイエスのように「生きた貨幣」でありかつあらゆる情欲が空虚な貧困さとして表現されるのなら、その空虚さによってコンピュータを越える価値の「生きた貨幣」が成立するだろう。だからイエスは言う。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と。ディスクールの問題は転倒される。ディクールによって生まれた神が、ディスクール殺すディスクールを生産する。ただし今度は「あなた自身をあなたの隣人のように愛する」のでなくてはならない。ここでこそ価値転換が行なわれ、「私は一つの運命であった」ということが可能になるのだ。