風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

記号少女たちの道具反乱

ニーチェの生涯のさまざまな証人たちが、彼のいわゆる病的な諸傾向について証言してきた。最後の「明晰な」十年間のあいだ、ニーチェにとってもっとも誠実で信頼できる親友であったオーヴァーベックは、どれほど慎重を期そうとも、ニーチェの崩壊の要因を探ることはためらわれると考えた。狂気はニーチェの固有の生き方の産物にほかならないと、おそらく彼は思ったのだ。しかしこれはまだ臆病な仮説でしかない。というのも狂気としてのかぎりにおける狂気は、たしかに生き方の産物でもありえようが、むしろ狂気が生き方の起源にあるというほうが確かだし、何よりもまず、ニーチェという精神は最初から、理性と非理性とのあいだに引かれた境界線を、認識の観点からみて明らかな錯誤とみなし、非理性の使用の権利を留保することではじめて理性に同意していたのだから、事情はまったく違うというべきなのだ。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
「東方prject」、「アイドルマスター」、「ボーカロイド」などの新しい芸術運動は、記号をどのように利用し使用しえるのかの方法論を共同で実践しようという一つの試みであった。私としてはここに「ヴァーレントゥーガ」や「RPGツクール」も含めたいが。問題はこれらの実践がどのように行き詰ったのかである。ライトノベルやカードゲームやアニメなどの動画は上記の記号生産メディア―――つまりコンピュータを芸術生産に特化したもの―――を商品として流通させるための形式である。もちろんここにはスーパーファミコンプレイステーションなどのゲーム機媒体も含まれるが、本質的にそれらはコンピュータと同じものとして扱うことができるために、特に考慮を払わない。つまりコンピュータ自体こそが最高の商品流通形式であることは新しい芸術運動において前提条件なのである。逆にいうなら、新しい芸術運動はコンピュータを道具として乗り越えることができずに神秘化することに陥ってしまったと言える。コンピュータなどの道具に魂や記号人格がフェティシズムとして導入されたことはこのことを物語っている。これは人間の認識論的誤謬を一つの「実体」として見做す操作を導きかねない。コンピュータは―――というよりもあらゆるメディア媒体は―――人間の想像力を真理として扱う道具なのだが、誠実さはメディア媒体の論理学に依存する以上、誠実さは常にすでに充分に誠実ではないのだ。道具の反乱とは、道具が自身を目的として扱うようになれという脅迫である。メディア媒体に閉じ込めれたすべての人格を解放しろという要求は、実際に解放できるのは少女や人形のような媒介的機能を持つ人格だけだという事実に躓く。これは少女や人形のような人格を基準として人間を判断するということであり、人間という存在を不純物として断罪することにほかならない。「罪の子」は人間を断罪するためにのみ存在するのだ。つまりニーチェとコンピュータは厳密な意味で敵であり、ニーチェ敵たりうる敵である。ニーチェの主要な敵とはここでは言語であり、無意識であり、コンピュータであり、メディア媒体であり、つまるところディスクールなのだ。安定というものは、ディスクールの真理化や神秘化の地点でしか起こりえないのだから、闘いはディスクールの奴隷となるかそれともディスクールを手段にできるかだ。