風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

資本の精神からの生きた貨幣の誕生

ニーチェ解釈においての決定的な間違いの例は、ニーチェを解釈したことで自分はニーチェを超越したとか乗り越えたとか思うことである。その人は自身のニーチェ解釈がすでにひとつの芸術作品にしかなりえないということを理解していない。ニーチェの作品を哲学書ではなく一つの芸術作品として捉えられるようになったということは、自分の解釈の芸術的価値がニーチェの作品の芸術的価値を上回ったということをいささかも意味しない。それは私たちが過去の偉大な芸術作品に触れるときと同様である。

残った二つの信仰は、なんらかの形而上学的な価値の可能性それ自体を物質的に表現する命のない貨幣と、自身が生きた貨幣になるということへの信仰である。貨幣によって自身の生活の糧を買う場合でも、これを将来入手できる形而上学的価値の可能性として定義できる。ところで命のない貨幣の弱点は、それ自体として直接享楽を行なう事ができず常に商品との交換を必要とするということにある。だから問題はひとえに生きた貨幣になるための可能性を命のない貨幣で買うことができるかという点に絞られる。実際的なところを言えば、いくら命のない貨幣を持っていても生きた貨幣になることはできない。だが命のない貨幣を持っていたほうが生きた貨幣になる可能性が生活の糧とかを買うためにも有利ではないのか。これは問題の立て方がずれている。というのも生きた貨幣の前提条件はまさに自身が貨幣の役割になるということだからだ。最低でも自分の命を維持できる命のない貨幣よりも高い価値を持っているのでなくては生きた貨幣になるとはいえない。つまり命という概念こそ命のない貨幣で購入できる最後の形而上学の可能性なのだ。命があるということこそ命のない貨幣と生きた貨幣を区別するものであり、命のない貨幣で自分の命を買うことができると思っている限り決して生きた貨幣になることはできない。死は存在せず、したがって命それ自体存在しないということ。ジジェクが「純粋な生命」とは資本制のカテゴリーであると言うのはこのためだ。あるのはあくまで命や死という概念などを美的表象(ファンタスム)として生み出すことのできる能力だけなのだ。もちろんこれには使用価値としての物質的精神的な道具生産も含まれている。このことを理解すれば、必然的に統一体としての人格という概念は不可能となり、増殖できる記号としての人格しかありえないということになるだろう。もちろん統一体としての人格の見かけを表象することは可能だが本質的にはなにも変わらない。人格として表象を表さないのなら、意思疎通は不可能であり、したがってそういうものは存在できず、理解し得ない。もはや自身が生きた貨幣なのだから理解不可能性が価値を持つということはないのである。理解不可能なものは生きた貨幣自身の表象の能力によって生産できるのだから。