風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

リヴァイアサン復活の呪文2

一切の価値の価値転換。それは自由意志というものは無く、したがって倫理的行為もまた無いということです。もっというなら倫理的行為とはひとつの美的ファンタスムなのであり、それが人前であろうが神の前であろうが本質的に変わりはありません。たとえ倫理的行為が人を助けるのだとしても、それは人を助けるという行為が美的価値として確立されているからにすぎません。私は「人間一般」を助ける場合の倫理的行為について言っているのであって、好意的な人間を助ける場合のことを言っているのではありません。この点で手塚治虫の「ブラックジャック」ほど適切な例はありません。たとえば「流れ作業」という作品を読んでみてください。一方に安い料金で誰でもできるだけ多く助けようとする医者がいます。他方で莫大な金額を払った人間だけを助ける医者がいます。どちらがよりよいのでしょうか?手塚治虫はこう言います。「患者ってえのはね、はじめから終わりまでひとりの医者に面倒見てほしいものですよ。」「あんたに説教を聞こうとは思わん。ウチは無駄なく合理的にやっておる!」(…)「流れ作業で、ハイ一ちょうあがり……か。それがお客の減る一番の理由ですよ、先生」。大事なこと、それはブラックジャックが脅迫的なモグリの医者とあくまで区別がつかないということです。そうでなくては、人が助かることが感動的なことにはなりません。ブラックジャックがもし医師免許を持てば、治療は一定の値段がつくようになり、患者に全財産を賭けても生きたいという意志を持たせることは決してできないでしょう。だからこそキリコとの対立が無条件に価値を持つのです。自由意志とは、よく観察すれば抑圧から逃れたがっている奴隷の精神にすぎません。自由意志が無くなったら、責任がなくなり、人は何でもするというのは奴隷の自己欺瞞です。それは無力さを道徳に置き換えようとする衝動であり、自身の権力を手に入れるためのひとつの手段です。「欲求のヒエラルキーとは、抑圧の経済的形態にほかならない。既存の諸制度が、基体の心的活動がもつ諸力に対して、基体の意識を介して、基体の意識によって行使する抑圧の、その経済的形態にほかならない。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)存在するのは情欲を美的表象として確立する能力だけです。強い精神というものはありません。あるのは軽くなった精神です。自由(リバティ)でも自由(フリーダム)でもなく自由(フライ)です。そこでルソーやカントによって台無しにされた自由意志無しの社会契約のことをホッブズでもう一度考えてみましょう。