風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

漂泊者の日向ぼっこ2

ニーチェがルターやドイツ人をルネサンスを徒労に終わらせたという罪をもって断罪しているのは、ニーチェ自身がそのようなルネサンスに対する罪を感じているという感覚なしには理解できない。だからこそ、「この人を見よ」で、ニーチェがドイツ人に十字架に掛けられ永遠化されるという考えが浮かんだのだ。おそらくブルクハルトの言うとおり宗教改革ルネサンスの頽廃から生じたものであるかもしれない。厳密な関係はブルクハルトも分からないといっているが、ルネサンス自体になんらかの限界があったことは正しいように思える。だからといってニーチェが断罪した文化的貧困が無視されるわけではまったくないが。アルコール中毒、新聞、政治的理想主義、享楽的教養、科学的宗教、「日本、世界に冠たる日本」、近代的理念の震顫麻痺、人種差別と帝国主義ナショナリズム。ざっとニーチェの口真似をもごもごとするだけでいい。

万人に当てはまる普遍的なゲームの法は一つしかない。総力戦である。それはヨーロッパのゲームとしての戦争を終わらせた総力戦ではなくて、ゲームとしての総力戦なのである。分業原理と両立するための唯一の美のファンタスムはそれしかない。よって問題になっているのは明らかに分業原理をこえるような一般等価物としての「生きた貨幣」なのであるが、それは分業的な労働形態である限り、超越論的理念、つまり不死の信仰と大して変わらない。ようするに分業原理を維持したままで、貨幣の信仰自体を捨てなくてはならないのであるが、それに代わる交換原理とはなんなのか?論理的に言えば、すべての人間が社会から排除されれば、幽霊としての身体的所有が本位貨幣としての価値を持つことになる。「産業的奴隷は、自分がどれだけの支払いを―――命を持たない貨幣で―――受け入れるかと、自分が自分からみてどれだけの価値を有するかとのあいだに、みずから違いを作り上げている限り、記号としての資格を要求することはできないのである。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)。社会的人格が完全に成立不可能であるとすれば、貨幣と人格の関係が完全に転倒する。人格が労働によって払われる限りにおいて貨幣が存在する、というように。統一性としての人格ではなく記号としての人格。「人を殺すことが不可能である」から、「人はすでに(象徴的に)殺されている」への移行。象徴的殺害を被った人間は「生きた貨幣」の記号として「復活」する以外価値を表現する手段はない。「生きた貨幣」となった身体は厳密な意味で殺されることが(象徴的に)不可能である。記号としての人格の特徴は、価値として増殖できることにある。そしてその増殖した人格こそが貨幣であると見做されるようになるということだ。これが極端であるとしても、ようするに社会内での分業原理における命のない貨幣の価値よりも、社会外での人格記号による貨幣の方が価値が高くなれば、転倒はある程度成立する。ところで「生きた貨幣」となった幽霊的身体所有者は何を動機として自らの価値を再生産するのか。明らかに社会内存在を社会外存在にしようとする「意志」によってである。この意志は社会外存在を社会内存在にしようとする真理への意志(誠実さ)に対抗して行なわれる権力への意志である。これは要するに分業原理が真理への意志の物質化である機械によってだんだんと置き換えられていくということに対して、機械をあくまで記号としての人格生産の手段として扱うのが権力への意志であるということを意味している。それは直接的に機械、つまりはコンピュータの専門知識を持っているということに依存するのではなく、あくまでその記号人格増殖の方法論(記号人格の生産手段)を持っているという意味でとらえなければならない。コンピュータの専門知識だけでは単なる分業原理と何も変わらないからだ。