西尾維新
これは自重(自嘲)しない無知を示す批評である。西尾維新について特権的に語ろうとすることは今まで留保してきたことを明るみに出す作業でなくてなんだろう。最初の疑問(偽問)「天才とは何か?」は近親相姦の事実を隠そうとするための罠ではないのか。殺…
「しかしあなたは普遍的なゲームの法は総力戦だと言っていたではないですか!」。その通り。私はこの普遍的なゲームの法という考えはまだ科学的方法論に則っていると主張する。なぜならそれは万人に当てはまるゲームを実験によって探し当てようとする方法論…
人間を殺すことはいかに不可能であるかということ。西尾維新の『悲鳴伝』において必殺グロテスキックが決まったのはどのような状況だろうか。ここで注目に値するのは「一人を殺しすぎる」と「一人をちょうどよく殺す」ことの差異についての言及である。「地…
「夢くらい見たっていいじゃないか。人類が絶滅する―――夢くらい。」西尾維新『非業伝』) ロボットも魔法少女も現実原則を破壊するという点では一致する。それが過剰な隠蔽と過剰な露出という差異はあるにせよ。しかし「悲恋」が「女の子」として「全裸」で…
「確証として、われわれはつぎの真実を告げる。すなわち、すべての人間は自分達の狂気のもとで平等であり、狂気(下意識の内奥宇宙)は人間精神の共通基盤を形成するのである。」(ダリ『ダリはダリだ』) 独自の狂気を、独自の事故を創造すること。人間の事…
「私なら百倍も大きいスキャンダルを巻き起こすことができただろう。それも『本質的な理由』からだ。素朴な反教権主義者よりも、過激なカトリック教徒のほうがいっそう破壊的なのだ」(ダリ『ダリ全画集(ロベール・ディシャルヌ/ジル・ネレ)』) 「大いな…
「友情を讃えて。―――古代にあっては、友情という感情が最も高い感情と認められていた。こと、それが自らに満ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自待よりも高いものとされ、いな、その唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされたということ、――…
敗北の方法論。あるいは勝利条件の完全な変更。世界を滅ぼすというのはどういう意味なのか。ウィトゲンシュタインの『確実性の問題』参照。世界を滅ぼすとは事実に関する基本的な言語ゲームの変更である。迷信とは二流の啓蒙思想である、ということでニーチ…
安心院さんが必殺技を大量に投げ捨てたので、超能力バトルはかなり厳しいものになったのだが、超能力は何なのかという問いに対してはまだ開かれたばかりだといえなくもない。『めだかボックス』によって「完全な人間作り」の意味はどこかにいってしまい、キ…
「バタイユと彼の世代の人々が、サド侯爵の恐ろしい相貌の前を長く立ち去らなかったのは、われわれの時代のすでに十分不健康な雰囲気に加わろうなどとしてのことではない。そうではなくて、彼らがサドの運命の諸状況のうちに、当時自分達の周囲において、は…
聖人は無を食べる。人間の残り屑を。人間という無を。天上のパンとしての人間。無を殺し続ける集団としての零崎一族。愛による殺人集団。家畜としての人間存在を流通形態にしても、消費の欲望は決して満足されないこと。幻想郷ですら、一つの社会体制である…
メディアとの関係。文化。ライトノベルとは我々とメディアとの恋愛関係である。メディアとのあらゆる性的関係があり、あらゆる恋愛詩がある。メディアに対する恋愛の方法の記述。ライトノベルによってメディアの利用方法はかなり方向付けられたと言える。よ…
人に見捨てられたと思っているものが本を読む。めくろうとするページが、もうペーパーナイフで切ってあるのに悲しくなる。ページでさえ、自分をもはや必要としていない。(ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』西尾維新の文章。いつも孤島、密室、狭い空間…
では天才の、聖者のクローンならどうだろうか。問題は果たして「天才」や「聖者」という属性が遺伝子的な人間的能力に基づくものなのか、それとも一種の道徳的判断にあるのか?答えは明瞭に後者であって、もしすべての人間が高い能力を持つのなら低い能力を…
コンピュータの主体の特徴は、その論理的同一性のなさにある。永井均が言っているように、コミュニケーションとは相手が自分と同じように考えると想定するのでなければ成立しない。だから自分がみたこともないような哲学的宇宙人は存在しないと言うことがで…
「「超人」という語は、最高にできの良い人間というひとつのタイプを言い表す語であり、これと対立するのは「近代」人であり、「善」人であり、キリスト教徒やその他のニヒリストたちである。―――「超人」は道徳の絶滅者であるツァラトゥストラのような人物の…
では最初から考えてみよう。なぜ高度に発達した科学は魔法と区別がつかないのだろうか。その答えは先の魔法少女の概念と同じである。科学の概念自体が魔法を内在的に有しているからなのだ。科学は使いすぎると魔法と同じになってしまう。その存在論的差異は…
コンピューターについて重要な点はまさにコンピューター自身が、「どうなっているかは決して分からないにもかかわらず、簡単に利用できること」を知っているという形式にある。コンピューターは自己言及の弁証法的おしゃべり、つまりヘーゲルの自由の見世物…
「偉人!―――ある人間がいわゆる「偉人」であるからといって、その人間がひとかどの人間だなどと断定することはゆるされない。もしかしたら彼は、ただの子供であるかもしれないし、年齢ごとに色を変えるカメレオンか、それとも魔法にかかった少女であるかもし…
馬券市場 市民生活とは、私事の体制に他ならない。ある行動様式が重要かつ大きいものであればあるほど、この体制はますます、それをコントロールから解放する。政治信条、財政状態、宗教――こうしたものすべては、恥ずかしげに身を隠そうとする。そして家庭は…
木を隠すなら森の中。狂人を隠すなら天才の中である。いーちゃんについては周知のことだが、まず名前についての問題がある。しかしこれについてはすでに作中で説明されているので詳しく述べる必要はないだろう。次にこれは私が出す読解の前提として妹との関…
ラカンの引用から始めよう。いーちゃんの問題系に近づくためにはこの問題は避けては通れない。 「(…)フロイトはある主体にとっては、母の欲望こそが、この(愛情生活の)おとしめの根本にあるのを示してくれました。まさしくそういう主体は近親相姦的な対象…
いじめとはいったい何か?定義のようなものはあるのだろうか?あるいは一般的に何をもっていじめと名指すことが可能となるのか。いじめに遭っている人の訴えだろうか?いじめている者の意志だろうか。しかしこの両者はともに「いじめはない」ということこそ…