風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

資本としてのコンピュータとブラックホール情報

「(…)すでに見たように、商品A(リネン)はその価値を、異なる種類の商品B(上着)の使用価値で表現することによって、後者の商品Bそのものに、等価物の形態という独特の価値形態を押し付ける。リネン商品がそれ自身価値であることを明らかにするのは、上着がそれ自身の身体形態と異なる価値形態をおびることなく、リネンと等価であるとみなされることによる。つまり上着が直接リネンと交換できるからこそ、リネンは実際にそれ自身が価値であることを表現するのである。だからひとつの商品の等価形態は他の商品との直接的交換可能性の形態である。」カール・マルクス資本論』)
私が貧困や苦痛を生産することが不条理だと言ったのは、貧困や苦痛を楽しむ人間がいないということではなく、それを価値生産的な規範として道徳的に意識することはできないということである。労働者を搾取することで楽しんでいる資本家というイメージは下層階級の幻想である。それは資本家にとって合理的ではないのである。資本主義の決定的な変化の一つはまさに奴隷労働は合理的ではないという発見にあるからである。逆に肉体労働者や貧困層のほうが、美のファンタスムとして貧困や苦痛を生産しなければならないと言いたいのだ。もちろん資本家が結果的に貧困や苦痛を生産することはあるかもしれないが、それを意識的に美のファンタスムにしようとは思わない。むしろ「どうして自分たちは労働者のことをこんなにも考えているのに」といった偽善的な形象になるはずである。邪悪な資本家はえり抜きの例にすぎず、それは資本家でなくとも邪悪であろう。話をもとに戻すと、貧困や苦痛を生産し人間の尊厳が貶められるために存在するということを価値判断として始めたのがまさにキリスト教であり、このことを私は「不条理」だと言うのだ。もしキリスト教的にならないのなら、肉体労働者やプロレタリアに残された手段は英雄崇拝でしかないことになる。なぜなら権力の恣意的な使用で成功するためにはどうしても例外的な何かが必要だからである。ところでコンピュータはまさにこの可能性を食い尽くしたのだ。コンピュータの人格的搾取はあらゆる例外的存在を価値として取り込むことで商品化する具体的普遍の物質化だからである。ここからコンピュータは貨幣の交換可能性を代理する機能を持つことが分かる。コンピュータは人格への貨幣による報酬という形態自体を使用価値として表現できるが故に、コンピュータは貨幣の直接交換可能性の形態である