風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

可能なる民主主義―――啓蒙についての考察

ルソーが発明した偉大な考えとは人間の間のあらゆる差異を、あらゆる区別を、あらゆる階序を、不平等や不正という形式に置き換えることにありました。ルソー以前には―――厳密に言えばキリスト教が始まる前の政治では―――能力の差異や肉体上の差異は一つの恩寵、一つの幸運、または一つの家柄における血統にほかなりませんでした。人は不正を攻撃したのではなく、あまりにも自分勝手にふるまうと神々や民衆の嫉妬を買い、暴動につながるので政治がうまくできなくなると考えられていたに過ぎなかったのです。能力の差異は人々の羨望や嫉妬の種にこそなりましたが、それは決して不平等ではありませんでした。ルソーは紛れもなくこの点が我慢なりませんでした。彼は人間を憐れみを持った動物と定義し、それに合うように人間を病気にしようと思い立ったのです。社会が人間を鎖につないでいるという告発は、病める者、抑圧されているもの、貧しいものにしか当てはまりません。しかしルソーは人間の自由を、不満をありったけ抱えた、いじけており自分を善人だと思いたくてたまらないすべての弱者たちに都合のいいものに変えてしまったのです。「一般意志への服従を拒むすべての者は、団体全体として服従を強制されるという約束が暗黙のうちに含まれるのあり、(…)これは各人が自由であるように強制されること」(『社会契約論』)であるような自由など、人間を家畜にすること以外に役に立ちません。しかし「美しい魂」たちがルソーの文章に熱狂し、革命を起こさなければならないと叫び始めました。紛れもなくルソーの文章は大衆扇動として第一級の文学的贋金づくりでした。なにが「美しい魂」を熱狂させたのでしょうか?「一般意志はつねに正しく、つねに公益を目指すことになる。ただし人民の決議がつねに同じように公正であるわけではない。人はつねに自分の幸福を望むものだが、なにが幸福であるかをいつも理解しているわけではない。人民は腐敗することはありえないが、欺かれることはある。人民が悪しきことを望むように見えるのは、欺かれたときだけである。」(同上)ルターはまだ民衆というものはたっぷりと堕落する余地を残しており、彼等は地獄に落ちるべきだと常々言っていました。しかるにルソーは騙された善人という形式を発明したことで民衆に大きな栄誉を与えました。つまり政治的腐敗はすべからく善良な人民が権力者に騙されたからに過ぎず、人民はその「不正」と「不平等」を攻撃すればよいわけです。これは民衆の心にかないました。都合のいいときだけ権利を利用すればよくなったからです。すべての革命的イデオローグはこのことを心から悲しんでおり、民衆を「馬鹿」呼ばわりすることになります。いったい馬鹿なのはどちらでしょうか?道徳が必要だ、と言っている人間は常にただ警察を必要としていたにすぎなかったのです……。