風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

人格記号ネットワークにおける貨幣信仰

人格記号=生きた貨幣はどのようにして恐怖や信仰を生産するのか?出発点は当然コンピュータである。少なくともコンピュータには自力で恐怖を生産することができないという弱点がある。コンピュ-タが恐怖を与えうる可能性は、人間がコンピュータの奴隷となって、コンピュータの持つ主人のファンタスムが失われることを恐れるという場合だけである。私がコンピュータを出発点においたのは、人間が自身の美的表象を表現する上で現在もっとも利用しやすい、あるいは流通手段として使用できる最高の道具だという前提で考えているからである。だがそうなれば、人間が自身の美的ファンタスムから恐怖を表現するのにコンピュータは最高の道具だということになり、コンピュータ自身が最高の恐怖の表象を持つという風に倒錯して考えることも可能なのではないか?これはもちろん言語の場合でも当てはまる。明らかに人間は次々とメディアによって生み出される恐怖を克服して自身の美的表象として利用できるようにならなくてはならないのである。しかし、恐怖を神秘化したままで利益とする操作がすなわち信仰なのだから、むしろ恐怖が克服されてほしくないと思う人間もいるのではないか?もしそう仮定するのなら、逆に恐怖を克服していく人間こそが恐るべき人間として信仰を獲得するだけのことではないのか。恐怖に価値があるのは、自身の命が美的表象であると気づくまでの間だけである。命が単に一つの美的表象であるにすぎないのだから、殉教や犠牲というものは大した意味がなくなってしまう。それが価値を持つのはあくまで命を一つの実体としてみている人間の間だけである。そういった恐怖を利用可能なものと見做す操作は、あくまで利益計算に基づく行為なのだから、克服したり虚偽を告発したりすることができることになる。むしろこう言わなければならないだろう。生きた貨幣であること自体が、命の実体を持つものに対して、最も恐怖を引き起こす存在なのだ、と。そうでなければ生きた貨幣がなぜ普通の命のない貨幣よりも高い価値を持ち、恐怖や信仰を与えられるのかがわからなくなる。しかし、生きた貨幣が単に恐怖や信仰を与えるだけであるのなら、それは他の操作可能な恐怖とどう区別をできるのか。明らかになんの区別もつき得ない。キリスト教に地獄や永遠の刑罰が必要だったのはある意味必然であったのではないだろうか。人々を誘惑するのに、貧困や不幸がなければならないのは、他の信仰と同じなのだ。だからイエスは金持ちには天の御国に入る可能性はらくだが針の穴を通るぐらい難しいと言ったのだ。命を買うことのできる貨幣がある限り、生きた貨幣への欲望というものは決して沸いてくることはないであろう。もしニーチェのようにそういうものの虚偽を告発しつつあくまで生きた貨幣の呼びかけを行ない続けるのなら、その外見は狂気の姿をとるしかない。生きた貨幣への信仰とは、信仰に繋がりうる恐怖を克服しようとする信仰だからである。むしろ道化と言ったほうが適切かもしれない。もはや他者が言うことに対してだけ答えればいいのであって、自発的に何かを言うことが不可能になるということ。行為が失策行為であるか空虚であるかをすでに内面化している分析家は、患者に対して謎の、あるいは一貫していない表象を産みだすはずである。「パロディが始まる」―――。