風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

貧困の政治化に反対して3

美が政治や経済に対して優位に立つためには、生産物の使用価値が交換価値を上回ることが必要となる。資本の動き方を転倒するということである。まず第一の転倒は、労働による対象物の生産よりも、それによってもたらされた貨幣収入による消費が質的に多くなることである。つまり消費によって生まれた美のファンタスムが労働生産物の総体的価値よりも高くなるということである。このようにして生まれた美のファンタスムは、それが良くできていれば交換価値となり、他の人間たちにとっての使用価値となるはずである。第二の転倒は第一の転倒よりさらに空想的になる。この美のファンタスムにとって、自分自身に使用価値という魅力を感じる人間=人格は、シミュラークルとしての交換価値を確立する。信者を増やすということだ。つまり魅力によって所有した人間を交換することによって、シミュラークルはみずからを使用するのである。第三の転倒。このように交換価値となった人間はシミュラークルとしての美のファンタスムの人格を媒介し、人格を増殖させるのである。彼ら自身が、自らの消費によって、媒介された美のファンタスムを生産する。このようにして美のファンタスムとしての人格は、貨幣のようにその価値を増殖させていく。これが「キャラクター貨幣制」の基本的な骨格である。美のファンタスムは、それがインターネットの仮想空間であろうが現実のファッションやコスプレによって表される身体的現前であるかを問わないが、それが象徴的レベルであるが故に、人格の価値増殖過程とは独立に値段をつけることができる。つまり「キャラクター貨幣制」だけでは、資本を転倒させるのに充分ではないのだ。我々が美のファンタスムであるキャラクターの媒介物ではなくキャラクター自体となって、媒介させるのでなくてはならない。それは私という人格が「正当な」報酬である苦痛を払ってもらうのではなく、私自身で払ってもらえるようになるということである。しかしそれがロボットによってあるいは立体映像であるシミュラークルの価値を超えることができないというのが、私の結論ではなかったか?それは間違いだった。それは政治利用される可能性を大いに含むが故に、生の観点を持つ生きた対象でなければならなくなったのだ。だからもう一度賭けよう、「生きた貨幣」に。ムーゼルマンを超えて空虚である可能性を考えよう。