風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

権力への意志と真理への意志の悪循環2

誠実さが復讐であるという理解が深まるにつれ、誰に復讐したらいいのかという難問が誠実さにおいて現れる。誠実さが増せば増すほど誰に対しても復讐を起こすのはためらわれるように思われてならない。そう簡単に復讐が晴らされる程度のものであっては困るからだ。ああ、しかしこの誠実さというやつはどうしたらいいのか?ここで誠実さは天才的な発明というものをおこなう。「いるじゃないかただ一人、永遠に復讐できる対象、つまり自分自身が!」。誠実さというものがこうしてきっちりと内面というものに食い込むと、誠実さは自立して生活するようになる。復讐相手を自分から見つけてくれるようになるのである。誠実さは罪、悪、不正、不公平、自己欺瞞などを食べて次々と肥大していく。誠実さが行き着くところまで行き着くとこう言うようになる。「もう自分自身にも復讐できるとは信じられない。復讐できる対象が何もない。まったく何もないのだ!」。こうなるともう自殺するより仕方ないということになる。復讐できる対象がなにもないと自殺せざるえないのだろうか?ある人々は引き返してこう言う。「ばかばかしい。そんなものは嘘だ。我々は誠実であることに疲れた。疲れたのだから復讐をしなくてもよいものだけを求めようじゃないか。賢明に幸福を求めようじゃないか。」こうしてこの人々はより誠実さが高ければ仏教徒に、より誠実さが少なければ家畜になる。残された人たち、復讐を諦めなかった人たちはどうなったか?「こうなれば誠実さに復讐するよりほかにない!」つまり誠実さは誠実に虚偽を生産できるようになる。虚偽を許さないことから始まったのに虚偽を生産するようになったのだ。しかも自己欺瞞なしに誠実に。「それも自己欺瞞の一種に違いない」またもやある人々はここで離れて、自己欺瞞に復讐することにたっぷりと時を費やす。だが別のある人々はこう考える。「誠実に考えてこれは自己欺瞞ではありえない。むしろ自己欺瞞と考える方が誠実ではないのではないか」。こういう人たちは芸術家になり、誠実さから誠実でもないことも誠実にできるという意味で解放される。真理への意志の徒はこういう人たちを自己欺瞞に陥っていると非難する。さあれそのとおりだ。この芸術家たちは自己欺瞞していることを誠実に認めているのだから。えっ?この認識自体が自己欺瞞だって?自己欺瞞を自己欺瞞すること、それはただの誠実さなのではないのか?別の種類の誠実さなのではないか?