風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

リヴァイアサン復活の呪文4

一般等価物をめぐるゲームの法は、自身が一般等価物である場合を除いてのみ有効である。一般等価物の使用価値とは個々人の欲望(願い)であり、自分だけの唯一の使用価値は享楽的使用である。よって享楽的使用の交換は不可能である。叶えられない願いは他者の願い、つまり商品としての使用価値となる。「生きた貨幣」になるためには、使用価値の唯一性と交換の不可能性を同時に廃棄する必要がある。もし前回言ったような理想的な媒介物の媒介物であるような「生きた貨幣」が成立すれば、直接的暴力の絶対的占有は無価値になり、ゲームの法がそれ自体として直接定立することになるだろう。身体を直接的には持たず、いくらでも身体を交換可能な絶対的幽霊貨幣の可能性を賭けてゲームを享楽する可能性が開かれる。二通りの可能性が考えられる。自身の願いを諦めて道徳的になるか、それとも新しい発明をするかだ。つまり「生きた貨幣」を含めた貨幣制度自体を疑うこと―――生活の糧を普遍的に支給し、欲望に合う富に一般等価物はもはやありえないと認め、それに合うように欲望を変更するか、それとも一般等価物の基準を美的ファンタスムに合うように変更し、享楽的使用を維持するかということだ。後者の場合、ゲームの法自体が生産物となり使用価値となり、享楽的使用の対象となる。よってあらゆる人間を享楽させられるような普遍的ゲームの法を生産することが問題となる。ところでゲーム自体がゲームの生産物であり、ゲームによってゲームの法の主体が生み出されるとするならば、この時点でゲームのシミュレーション性が明らかになり、記述がループする。たとえ物理的暴力の戦争をするとしても記述のループは抜け出せない。つまりいずれにしても頽廃は避けられない。ではこの頽廃に対して道徳批判はどのように機能するのか。戦争すら契約の保証とならないところでは戦争の不可能性だけが残された契約だということになる。個人だけでなく社会自体が戦争を行なう事が不可能になり、対立の消滅、敵を認識できないこと、つまり存在しないものとして排除することだけが機能として残される。これこそ身体の幽霊的所有だということになる。だが存在しないものを排除すること自体を享楽的な生産物として使用することは可能である。排除の機能自体を享楽すること。排除のヴァリエージョンが不必要に無駄に過剰に生産される。最終的に自身の身体を排除することが享楽の最高の価値として享楽される。それに反対するものは文字通り全面的破壊を行なうしかないということか?美的価値そのものが頽廃として断罪される。生の価値の永劫回帰だけがあるということか?もはや交換も無く、生産物の享楽的使用も無く、生がそれ自体として価値となるということか?これは文化の破壊ではないのか?生の価値を破壊したら何が残ると言うのか?私もジジェクのことが人事だとはぜんぜん言えないようだ。