風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

漂泊者の日向ぼっこ

世界に起こるすべての圧迫や苦痛を、私は意志したと反省しなおすことによって、苦痛や圧迫を私の世界の意志とすること。この意志が一つの過剰を形作り、なんらかのシミュラークルとして排出されること。「悪魔というものは七日目ごとの神の息抜きであるにすぎまい。」(ニーチェ『この人を見よ』)この過剰な意志として排出されたシミュラークルが私の世界に対して苦痛や圧迫を再び引き起こし、それを何度でも私は意志するということ。この考えが恐ろしいのは、既存の形態である真として考えられなければならない、国家や法律や人間や道徳、貨幣すらも私が意志したものの一つとして、シミュラークル製造のための手段として破壊したり変形させたりすることが可能になるからである。アーレント永井均が拒否したのはまさにこの考えなのだ。意志の意志は無限後退に陥る故に、または意志はなかったことにすることはできないが故に、意志は存在しないというのは、仏教的な無として、一切の仮象が区別つかなくなる地点として考えられているのではなく、ラカンの言う意味での存在しない、つまり生成論的なカテゴリーであるが故に、特定の概念として認識することはできないということにすぎない。だからそれが、仮象の強度によって区別することは言葉でも依然として可能である。なくなったのは真のあるいは仮象の「世界」であって、仮象という形態ではない。それは仮象と真のという区別がつく世界観がなくなっただけなのだ。生についての本質論的説明が仮象として物語になったということは、生がたまたま偶然存在しているとか、奇跡としか説明しようがない、というような考えが終わったということなのだ。それはただのニヒリストの考えである。生についての新しい表現が、シミュラークルが問題になっているのだ。これを観念の置き換えとか言って批判することは、まだ生についての本質論的説明を要求している態度から抜け出していないのだ。もちろん、つまらない生についての物語や、救済のために物語を作るということはあいかわらずただのニヒリズムであることは間違いない。真実の物語などというものはナンセンスなのである。シミュラークルの価値はそれが正しいかまちがっているかではなく、有力か無力かで測られる。これを強弱二元論だということは、芸術を何も分かっていないにすぎない。暴力の強弱二元論になるのは真理の政治だけである。もちろん私は物語の真理がナンセンスだといっているわけではない。偶像を信仰せよなどということには私は完全に反対している。真理と真理であると信じるということには無限の開きがある。それが意味することは、ラカンの言うとおり「私」は常に真理(パロール)を語るのだとしても―――真理のすべてを語ることは素材的に不可能であり、失敗という形でしかありえないということにほかならない。真理について語ることに大した内容が残っているということではないのだ。