風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

可能なる民主主義―――啓蒙についての考察3

しかし私はルソーの啓蒙思想に忘恩であろうとは思いません。啓蒙思想のおかげで、あらゆるものに対する不満を精神的な告白として表現できる能力、つまり万人の平等における個人の権利という誇大妄想によっていっそう芸術の享楽能力が高まり、軟弱になったということです。そもそも啓蒙思想言論の自由が保証されるとき、得をするのは誰なのか少しでも考えれば、いったいなぜ彼らが万人の平等や個人の権利を擁護するのかがわかります。ではそもそも啓蒙とは何でしょうか?それは恐怖を引き起こすことです。恐怖なくして徳なしと言ったのはロベスピエールではなかったでしょうか?この点ではあくまでホッブズと同じなのです。違いは次です。もし恐怖が一旦利益であると感じ取られたら、それは信仰になるということです。ただし恐怖は量ではなく質に比例します。量だけの恐怖は嫌悪感に変わります。何に恐怖していいか混乱するからです。恐怖は明確でなくてはなりません。だから信仰がなくなるとは利益になっている恐怖が消えるのと同時であるということです。ルソーは社会契約がまだ成立してすらいないのに、社会契約がなければ人類は滅亡すると考えました。実際人類は核爆弾を作ってそれを「証明」したのです。もちろんそれはなんら正しさの証明ではなく、恐怖の証明です。たとえ現在では絶えず安全安心であり続けなくてはならないという脅迫が行なわれ続けているとしても本質的には同じです。では人間が恐怖を克服してしまったらどうなるのでしょうか?まさにそういう人間は恐怖を引き起こすのです。まさにこれこそ啓蒙の啓蒙でしょう。人間―――いえ記号人格の価値は恐怖を引き起こす能力の質に依るようになるのです。だから恐怖を引き起こさない言論になどだれもまともには従いませんし、誠実であれというナンセンスも、同じ好意的な仲間内以外ではなんら意味はなく、無力であることを大声で叫んでいるのです。恐怖の前に平等などは何の価値もありません。私はいつでも人間が平等であることに反対しています。人間は平等ではありませんし、不平等でもありません。憐れみを持った動物、つまり家畜が恐怖を引き起こさないということはいうまでもありません。恐怖がなければ対等であることなど決してできないのです。私は厳密に幻想郷の論理で考えているのです。妖怪にとっては人間に恐怖を与えることが税であり、妖怪に恐怖をもたらすことのできる人間は、妖怪退治をおこなえるという形式です。そして恐怖を信仰に変えることができる存在は「神様」になるということです。