風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

権力への意志と真理への意志の悪循環

「善とは何か?―――権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か?―――弱さから由来するすべてのもの。
幸福とは何か?―――権力が生長するということの、抵抗が克服されるということの感情。満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和でなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネサンス式の徳、virtu、道徳に拘束されない徳)。」(ニーチェ『反キリスト者』)
こんなことを書くのも恥ずかしいぐらいだが、私たちが望んでいるのは現体制への戦争か、それとも現体制への平和のどちらなのか?これは良く理解すべき問題であると思われる。ところで戦争の場合、勝利条件は相手の戦力を破壊し、屈服あるいは無力化することである。いったい何を破壊し、いったい何を無力化すべきなのか?

道徳批判が行なわれるのはニーチェの言うとおり道徳によってである。私が批判するものそれは「真理への意志」への批判である。真理への意志?なんだいそれは?それは虚偽を許さないという感情、誠実であるべきだというあらゆる感情のことだ。ところで真理への意志は批判することが可能なのであろうか?真理への意志を批判することは何によって批判されるのか?真理への意志によってである。真理への意志。あらゆる犠牲を払っても誠実さを、真理を求めること。いったい何によって?そもそも誠実さの感情とは何なのだろうか。何に対する虚偽が許されないのか。自分を圧迫する「虚偽」が許されないのだ。この「圧迫」が虚偽であること、虚偽であると理解するということ。これは誠実さの第一歩目だということになる。誠実さの訓練、それはこの圧迫を言葉に移し変えるという作業にあるのだ。ところで言葉というものは何かこの圧迫に対して適切な言葉を与えることができるのであろうか?苦痛、苦痛?そんものでいいのだろうか?そんなものでこの「虚偽」は許されるのだろうか?苦痛という言葉なんかではとてもじゃないが表現できないのでは?何らかの正当性が必要なのでは?仏教徒以外の人間はそう考える。仏教が訓練するのはここ以外のどこでもない。ここで「苦痛」という以外の言葉を選択しないこと。これが仏教の「大切な」教えである。そんなものでいいのだろうか?許されないはどこに行ったのだろうか?誠実さ―――私たちの復讐は?