風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

貧困の政治化に反対して

「金。その価値は恣意的であり、その本来の無用性は、富のただなかで得られるあらゆる情欲のメタファーであり続けているのだが、―――金は、その体制が全世界的に=普遍的に広がっているという事実によって、実用的であると同時に、非人間的なものとなっている。労働量による価値の諸規範は、経済的観点からすればあきらかにより「正当な」わけだが、まだ懲罰的性格を保持している。情欲の源泉である生きた対象は、交換の観点からすれば、その維持費用と同じだけの価値を持つ。それを養う偏執的所有者が、みずからにどれだけの苦労や犠牲を課したかが、その貴重にして無用な対象の価格をあらわすのだ。この価格は、需要以外のいかなる数字によってもあらわされえない。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
貧困を政治的問題として執拗に追求し続けるということは、結局貨幣の価値を最高のものだと認めているに等しい。もちろん生活の糧はどんな場合でも「正当な」要求であり続けることだろう。だからといって貧困が最大の政治的問題だということは、芸術や文化の価値を無視することに等しい。政治が経済の次元に決定的な影響をもたらすという洞察がいくら正しいものであろうと、貧困を政治的価値それ自体として措定することは、暴力の正当化以外の何者ももたらさない。なぜなら貧困には、失うものがなにもないからである。貨幣経済が、つまり資本主義が普遍化されている中で貧困を最高の価値として表現するためには二つの方法がある。スターリン主義、つまり生産手段を破壊するための死体の生産。ファシズム、あるいはナチズム。美を生産するための人間の破壊。真理の政治化と美の政治化である。ベンヤミンは完全に誤っている。芸術の政治的利用には退廃的か健全かなどという区別は無意味である。なぜならそれを決めるのは政治的基準による以外にないからである。ここからなぜ政治は暴力以外の帰結を見出さないかの理由が分かる。政治を最高の価値と見做す限り、貧困は最大の政治的問題である。貧困はあらゆるものを手段化する。暴力を使用することが問題なのではなく、政治を最高の価値として考えるなら暴力以外に参照基準がないと言いたいのだ。ゆえに真理も美も決して政治手段として考えてはならない。もし両者が政治的に利用されることがあれば徹底的に反対すべきである。ところで脱構築以来、政治の真理などというものは存在しないことがいやというほどわかっているのだから、残っているのは政治の美以外にないはずである。プラトンが詩人を国家から追放せよと言ったのはある意味正しい。詩人は政治と関係ないかあるいは政治の上にある。ところで政治的なものは存在しないのであるから、詩人はもはや政治の上にあるしかないことになる。