風鈴神社

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可能なる民主主義―――啓蒙についての考察2

ルソーはまた新しい社会改革的な学問の発明という点でも大きな役割を果たしました。「これこれのことをしなかったら社会は滅びてしまう!大変だ、社会を変えよう!」という形式を発明したのは紛れもなくルソーの功績であり、学者の白痴主義を発明したのもルソーです。ホッブズだったら「まず独裁権力を握れ、話はそれからだ」と言ったでしょうが、これはマルクス主義に白痴主義とともに受け継がれました。というのも最終的に言えば、やれることは独裁権力を握ることだけだったからです。革命的イデオローグは制度や契約が悪く、道徳を取り戻そう!と言いますが、そもそも腐敗も悪も道徳や善の概念の腐敗から来るのであって制度や契約はただの形式にすぎません。ヘーゲルは道徳を無視すれば一つの趣味です。つまり何を擁護するのかの問題にすぎません。形式が大事であると言ったところで何も言ったことにはなりません。ただ現在の制度を守っているだけです。話を戻しましょう。「平等」とはいったい何なのでしょうか?ルソーは「平等」は机上の空論だが、権力と富の「濫用」を防ぐための手段に過ぎないとはっきり言っています。その方法はなんでしょうか?つねに権力と富を握っている人間を「不平等」や「不正」といって攻撃することです。実際これは大変大きな効果を挙げました。つまり資本家が、形式的平等を守っている資本家が勝利するために大いに役立ったのです。資本主義も「不平等」な富や権力の濫用があったなら、生産手段や労働者をこきつかうのはもっと難しかったことでしょう。ルソーも「平等」が破壊されるのは自然な成り行きと認めているのですから、権力や富の濫用をふせぎつつ得た権力や富は「自由」の権利だと言わざるを得ないでしょう。ルソーは紛れもなく馬鹿なのではなく嘘つきなのです。社会契約論には現在でも注目すべき洞察が沢山あり、それはどれも尊重されてしかるべきですが、そこから普遍的な立法を取り出すときになるとルソーの性格が完全にあらわれます。よくもまあ、これだけ恣意的に選択してこれはすべての人に当てはまらなければならないと言えたものです。「その恥知らずを押しつぶせ!」(ニーチェ『人間的、あまりに人間的 463』)結局、ルソーも国家は人々の命を守るので、人々は国家に命を捧げることが「自由」であるというのですから、ホッブズとたいしてかわりがないのです。違いは、ホッブズは正直に恐怖からといいますが、ルソーは権利からと嘘をつきます。ああ、しかしこの嘘は人をどれだけ感動させてきたことでしょう。実際は感動した人々を使って権力者を脅迫しているに過ぎないのですが。まあこれが「自由の勝利」と呼ぶべきでしょう。間違いなく「自由」は「勝利」したのです。