風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

科学的方法論の近親相姦的分解

まったく信じられないぐらい空虚で無意味な恋愛小説を書いたわけだが、この物語には続きがある。行為の問題だ。物語がセックスやマスタべーションのためにあるというのは物語の頽廃の徴候であり、サドやバタイユの問題提起を無視すればジジェクのいうとおり物語は行為のための口実になってしまう。物語とセックスの場面は両立できない。セックスに焦点が当てられればそれはポルノになってしまう。ちなみに浮気の物語については私は結婚した両者のいずれかが、ひとりの女を認めなくなったときに起こるという風に解している。男が女をひとりの女として認めないか、女が男にひとりの女として見られていないことに気付くかである。具体的に言うとひとりの女が子供だけでなく男に対しても母になってしまう場合、結婚の行き詰まりが生じる。子供を育てるという「理想」が共有されてある限りは男女関係はうまくいくが、子供がひとりの人間となればそうはいかない。逆に女をあくまでひとりの女として見做し続けるのなら、子供を育てることができなくなるという矛盾が生じる。子供は余計なもの、ひとりの女を母にしてしまう障害物として現れざるを得なくなる。ただし近親相姦の物語は例外である。私は「ヨスガノソラ」が成功したのはこのためだと思う。恋愛としての行為が近親相姦の場合はなぜ物語として両立できるのか。それは「正常な」性的関係という概念と同じく近親相姦が定義からして物語だからにほかならない。だから近親相姦の物語においても行為のあとは物語が成立することができない。まず対象が母の場合を考えよう。これは「オイディプス王」で示されているように、ひとりの女が母だと気づいた時点で女は仮象になり目をつぶすしかなくなる。母だと気づいている場合は、行為を行なう事ができない。次に父の場合、つまり娘が対象な場合、娘は少女であるかひとりの女であるか決定することができないため、娘を八つ裂きにするしかなくなる。娘の側から言えば、父を殺すか、自殺もしくは父に自分を殺すように仕向けるかのどちらかだということになる。子供ができた時点で矛盾は明白化するからだ。最後に兄弟姉妹の場合は、父母と同じ末路をたどるか、普通の男女関係になるかのどちらかである。つまりセックスと物語は両立できなくなる。では子供を遺伝子工学で作るような物語についてはどうだろうか。これも子供が生まれた時点で、子供が人間として認められないか、それとも他の人間と同じにすぎないかのどちらかになる。ところで私たちはここで人間として認められないことを選ぶのではなかっただろうか?「独りで生きるためには、人は獣であるか神であるかでなければならない―――こうアリストテレス言っている。第三の場合が欠けている、すなわち人は両者でなくてはならない―――哲学者で・・・」(ニーチェ『偶像の黄昏』)