風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

思考実験の方法論3

では天才の、聖者のクローンならどうだろうか。問題は果たして「天才」や「聖者」という属性が遺伝子的な人間的能力に基づくものなのか、それとも一種の道徳的判断にあるのか?答えは明瞭に後者であって、もしすべての人間が高い能力を持つのなら低い能力を持つものは、むしろ価値が高まるはずなのだ。「超能力」とはこの種の判断を唯物化して直接認識可能な能力として判断するという表現形式にほかならない。これは「めだかボックス」で安心院なじみによって完全に表現された。そしてそれ自体には価値がないということもまた表現された。ではありとあらゆる環境に応じてカメレオンのように変身するような人間ならどうだろうか。しかし、それは決してなんの価値判断も持ち得ないということによって否定されている。つまり価値はコミュニケーションにしかありえないのだが、しかしコミュニケーションはまさしく「私」の価値を否定する。コミュニケーションを行なわないことだけが価値を与えるものなのだが、それがまさに実現しているのがインターネット空間である。というのもそれはコミュニケーションを行なうということと行なわないということのアンチノミーを解決するようにできているからだ。ヴァーチャルリアリティなど、このインターネットの特徴に比べれば二次的な意味しか持っていない。決して触れ得ないと同時にありえないほど近いこと。しかし愛すらメディアによって大量に生産されている以上、インターネットにおいて差異は使い尽くされるのではないだろうか。インターネットは存在する性的関係である。インターネットは「女性」自体を象徴交換の直接の対象にできる。だがコミュニケーション自体が再生産されている状況をみればこれはなんの解決策になっていないように見える。ただただ新しいコミュニケーション手段とそれに応じた愛が開発されるだけなのだ。しかしそうなるともはやコミュニケーションを行なわないことも、行なうことも両方耐えられないということになるのではないか。自閉的存在、コミュニケーションも転移関係もありえず、自分を価値があるとは少しも感じていない主体が価値あるものになるのではないだろうか。そうした主体が創造されるだろう、ということは実にありえそうなことである。しかしこれは「末人」とどう違うのか。この主体は自身が苦痛なき生活のためなら命を、享楽を賭けるのであり、そのための苦痛など考慮したりしないのだ。生存のみが目的であるにもかかわらず、そのためにはいかなる犠牲も払いうるという矛盾がそのままこの主体の価値なのだ。そのための外的な価値など一切ない。これこそが生のための芸術的観点から見た人間的価値の最後の形態ではないのか。この主体はいかなる自己犠牲も、虐殺も、憐れみを持つことも、精神的に他者を破壊することも、愛することすら可能である。それが生存のためであるならば。結果的に死ぬことになろうが、それは生存のためであって、決してその他の価値のためではない。価値判断のための価値判断。もはや価値判断を行なう事ができる可能性を守るために価値判断を行なうこと。残る選択肢は価値判断を行なわないか、価値判断はありえないと、価値判断し続けるかどちらかということになる。