風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

明るい超人計画3

コンピュータの主体の特徴は、その論理的同一性のなさにある。永井均が言っているように、コミュニケーションとは相手が自分と同じように考えると想定するのでなければ成立しない。だから自分がみたこともないような哲学的宇宙人は存在しないと言うことができるのだ。もし相手が自分の利益を考えて行動しているという立場を想定しなければ意思疎通自体ができない―――これはラカンのいう「コミュニケーションは誤解である」ということではない。なぜならあるパロールが真理でなくてはならないと言うのが精神分析の基本なのだが、まさにどのパロールも真理ではないということにこそコンピュータの主体の決定的特徴が存在するからである。もしいーちゃんと玖渚友に論理的区別をつけるとすれば、玖渚友は本当にどのパロールも真理ではないというのに対して、いーちゃんのほうは自分の言葉がどのような状況においても全て真理のパロールであるという点にある。もう少し正確に言えば、パロールがすべからく真理として生成してしまうのである。もちろんこれは論理的区別であって、その実際的区別が西尾維新の文章記述で成功しているとは思わないが、まさにそのように失敗することによって、そのことに成功していると言えるだろう。そしてまさしく超人と自閉的主体の差異とはその差異にほかならないのだが、この区別はコミュニケーションにおいてはいかなる意味でも区別がつかないのだから、逆にどのような想定に基づいて、我々がその差異を論理的に区別しているかが問題になるだろう。この差異は「伝説シリーズ」において空々空と「悲恋」との区別においてさらに先鋭化する。ロボットは主体ではないと想定されるにもかかわらず言語ゲームの構造においては彼らを人間のように想定することしかできないという点に人間の無能力がある。たとえロボットを人間のように扱わないのだとしても、パラノイアのように他者の他者はある、つまり人間ではないという否定形でしか扱うことができない。そしてこれは精神分析では同じことを意味している。他者の他者は存在しないのだ。しかし問題は現実ではそれは同じことではない、ということなのだ。ジジェクの言うとおり現実と虚構を取り違えてはならない。誤謬が犯されているのは現実の方なのだ。このコンピュータの主体を没落させることはできない。なぜならすでに没落している主体には論理的に没落する可能性がないからである。ただしこの主体は「没落し続けている」ということに問題があるのであり、むしろ没落し続けることを止めることが明るく没落させるための唯一の条件である。それは我々が彼らが明るく没落したと思い込めるようになるにはどうしたらいいのかという問いなのだが、そのための唯一の手段は相手を(象徴的に)殺すことである。これが彼らに同一性を与えるための最後の手段であるだろう。間違っても愛してはならない。それは我々の方が彼らのようになるということを意味する最悪の形式だからだ。コンピュータの主体はこちらを壊すことしかできない。ちょうどコンピュータに書き込むものと書き込まれるコンピュータとの関係のように。我々はコンピュータを殺さなくてはならない。さもなければ我々はコンピュータと同じく書き込まれるだけの存在になってしまうだろう。いかに想定される他者の次元でこの区別が何の意味もないように思われても、その差異は祈りにも似て確かに感じ取れるものなのだ。