風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

天国への行き止まり2

メディアとの関係。文化。ライトノベルとは我々とメディアとの恋愛関係である。メディアとのあらゆる性的関係があり、あらゆる恋愛詩がある。メディアに対する恋愛の方法の記述。ライトノベルによってメディアの利用方法はかなり方向付けられたと言える。よってキャラクターの氾濫によるこの文化を批判するためにはどうしても別の、メディアに対する利用方法が必要となる。それともメディアが我々を利用しているだけなのか?

西尾維新の小説の基本的な世界観はドストエフスキー的に言うと、イワンがスメルジャコフを許せる世界である。ただしそれをしてしまうと、完全な袋小路になることが判明した。ドストエフスキーの登場人物たちと違って、西尾維新の登場人物たちは自殺しない。自殺すら彼らの救いにはならない。というのもメシアはすでに来ており、それこそが最悪の出来事だからだ。西尾維新には救世主の生理学的傾向というものが理解できるということが、絶望的なのだ。それは理解不可能である。この言語上の表現不可能性を表現したところに戯言シリーズの決定的な特徴が存在する。

すべての人間が抑圧され搾取されるということは、すべての人間が天才や英雄になれるかもしれなかったという状態でもある。この希望にこそ、誰もが飛びつく。

もし「魔法」によって、あらゆることが認識可能になるのなら、文字による「精神」などは必要ではなくなる。幼児が魔女なのは存在論的に正しい。心理学はディスクールと化した「精神」を読むためのものにすぎない。心が読めないとは、たんにディスクール化されていないということにすぎないのであって、だから無意識やメディアは単に読むことができないのだ。成長とは、精神の論理化の過程のことを意味しているのであり、だからこそ魔法少女はその中間、「精神」が論理化していく過程の存在だということになる。認識(論理化)されないメディア(無意識)は「魔法」である

実験は新しい実験を産みだすだけであり、価値判断を生み出しはしない。これは思考は価値判断を生まないというのと似ている。価値判断とは思考の形式だからだ。誠実とは思考に行き詰ったときの最後の逃げ道である。

悪筆とは思考のスピードについてこれない文字のノイズである。ウィトゲンシュタインのようにゆっくりと。

「わたしの自己叱責的な考察の中で、それでもやはり自分の欠点を見つめるのは素晴らしいことだ、と言う感覚をまったく抜きにして書かれているものは、ほとんど一つとして無い。」(ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』)

「哲学者たちよりもはるかに狂って考えたときにだけ、哲学者の問題を解くことができる。」(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)

「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(太宰治『右大臣実朝』)