風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』注釈

馬券市場
市民生活とは、私事の体制に他ならない。ある行動様式が重要かつ大きいものであればあるほど、この体制はますます、それをコントロールから解放する。政治信条、財政状態、宗教――こうしたものすべては、恥ずかしげに身を隠そうとする。そして家庭は、老朽化した家であり、そのものや隅っこには、しみったれた本能が、しっかりと根を下ろしてしまっている。俗物たちは、愛情生活の徹底的な私有化を宣言する。そこで彼らにとっての求愛は、当人達だけのあいだで、黙々と一生懸命行われる事柄になった。このまったく私的で、一切の責任から免れている求愛が、〈情事〉というものの本当の新しさにほかならない。それに対し、プロレタリア的なタイプと封建的なタイプは、次の点で似ている。すなわち彼らは求愛において、相手の女性を征服するよりも、恋敵たちを征服することにずっと熱心なのだ。しかしこれは、女性を〈自由〉に振舞わせる場合よりも、はるかに深く女性を尊敬すること、彼女の意向も聞かずに彼女に従うことを意味する。エロスにおける重点を、公的な領域に移すことは、封建的であり、プロレタリア的である。あれこれの機会に、女性を連れて姿を現すことが、その女性と寝ることよりも重要でありうる。したがって結婚においても、子作りに役立たぬ夫婦間の〈調和〉などに重きは置かれない。両人の闘争と競争の奇妙な結果として、子供と並んで、結婚の精神的な力というものが現れてくるのである。

1,アイドルの公共性とはどのようなものか。今敏のアニメ「パーフェクトブルー」参照。これほど男女の性の非対称性が明白なものはない。つまり女性は同一化し、男性は相手を「所有物」にしてしまう。だがこのことを単純に否定してはならない。なぜならこれが何に対して為されているかが問題だからである。明らかにこの気持ち悪さは夫婦という個別的な関係に向けて行われている。
2,キャラクターの公共性とはどういうものか。「俺の嫁」には厳密な何かがないだろうか?つまり公的に他のキャラクター解釈をはねつけるということが。おそらく少女漫画の方がこの点については徹底しているように思われる。キャラクターは別の文脈でも利用可能であるということだけでは充分でなく、そのキャラクターがどのような公共性を持つか自体が争われなくてはならない。それに対する反動として性的関係の不可能性を隠蔽するための大量の幻想が生産される。キャラクターが誰にとっても「寛容な」ものになるのは性行為だけだからである。
3,アイドルであるようなキャラクター自身を生産するものとしてのプロデューサーの役割とはどのようなものなのか。問題はプロデューサーが父親になる可能性は娘を公共性として提出する以外にないということにある。よってアイドル同士の「結婚」は厳密に禁止されている。恋愛はいいのである。なぜなら、プロデューサーは彼(女)らが絶対に子供を作れないことを知っているからだ。つまり象徴のレベルにおいて、アイドルに子供ができる可能性はレイプしか存在せず、この場合アイドルは公共性のレベルから娼婦になることで個別に転化してしまう。そのときプロデューサーはそのキャラクターにとって父のレベルから外れてしまう。一度アイドルを経験した者は象徴の効果を知ってしまっているがゆえに、母のレベルになることはできない。そこで娼婦を拒否するものは、あらゆる象徴関係を拒否することに行き着く。
4,「少女不十分」もはやいかなる意味でもアイドルでなく、またいかなるレベルでの「父」ももっていないような存在は、娼婦にすらなれず、不十分な存在になる。比喩的にいうならカフカの「ヨゼフィーネ」のピューピュー鳴きそのものになる。まさにアイドルのあり方として不滅なもの、アイドルの核心、つまり廃残物である。私は西尾維新と違ってこの存在を救うべき方法が(あるいは救わない方法が)まだわからない。物語ることは現在何を意味するのだろうか?ばかばかしいが原罪を意味する、といってみたい誘惑に駆られる。城平京の小説「虚構推理」はこのことに対するひとつの解決策ではある。もちろん西尾維新の解決策とは逆であるのだが…。