風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

殺人と非殺人の人間関係

人間を殺すことはいかに不可能であるかということ。西尾維新の『悲鳴伝』において必殺グロテスキックが決まったのはどのような状況だろうか。ここで注目に値するのは「一人を殺しすぎる」と「一人をちょうどよく殺す」ことの差異についての言及である。「地球陣」などのSF用語を別の視点から考えてみよう。空々空は「地球陣」に対抗しうる人間ということだが、「地球陣」が「本物の人間」との差異が哲学的な存在論的な差異しかないという説明によって、他者問題が提起されている。もちろん「本物の人間」ということがコミュニケーションによって生成する象徴的な概念であることは前提として、あえて「地球陣」という異質な言説を提示していることに焦点を絞ろう。ここで空々空だけが「地球陣」に対抗できるとはどういう意味なのだろうか。眩しすぎるとはどういう意味なのか。剣藤犬个の場合を考えてみるのが一つの近道になるような気がする。つまり彼女は「殺しすぎる」人間であり、だからこそ「失敗した」人間だというのである。「地球陣」に対抗するためには人を殺しても平然としている「強靭な精神」を持った人間でなければならないというのだ。この考えと比べると空々空は「強靭」というよりはそもそもそのような問題系自体を理解できないといえるだろう。むしろ彼は人間を殺すことができないのだ。なぜ人間を殺すことができないといえるのか。この区別はなぜ人間を、もっというなら人間の肉体を殺しすぎなくてはならないかに関係している。つまり「一人を殺しすぎる」ような人間は、人間の肉体における以上のものを殺そうとしていると考えてみたらどうだろう。殺したいのは魂であり心であり人格である。一方空々空は人間の精神を殺そうなどとは夢にも思っていない。彼は人間の生命活動を停止させるのであってそれ以上でもそれ以下でもない。だから「地球陣」の眩しさに対抗できるとしたらどうだろう。つまり「地球陣」の眩しさは人間の尊厳や相互性の精神的障害のようなものだというわけである。これは彼が殺しのプロのような存在ではまったくないということからもますます強調されている。もし彼が殺しのプロであるのなら、それは一種の仕事として任務として処理される何事かであり、それに感情を交えてはならないという意味での殺人となるだろう。だが彼の場合そういうことが意図されているわけではまったくないのだ。むしろ秘密結社的な組織による加入儀礼的な儀式であるからには過剰な殺しこそがある意味では罪の連帯を覚えさせるために必要であるとすらいえるだろう。空々空の場合、それは後にもわかるとおり見事なまでに失敗している(もっとも地球撲滅軍はその特質を買って彼を入隊させたのだが)。このことがもっとよく理解されるのは彼が自分に得がない交渉をしようとするときである。他者は最初から利害関係を一致させる要素としてはまったく感じられていない。彼は常に自分の利害についての一元的理解に基づいている。もちろん表向き利害を一致させようとはしている。だが彼の場合、自分を有利にする条件はむしろ相互性を守ろうとする見かけのために導入しているに過ぎないかのようなのだ。賢明な政治家なら、他者だけに利益があるような提案は戦略でしかありえない(だからそんなことは見かけ上しない)はずだが、空々空は相互性のなさを隠すためだけにそれをなしているという差異がある。だから彼の提案は不気味なのである。この人を殺すことの不可能性は、次の四国編においては死体の消滅という形式に変わる。空々空だけでなく、すべての人間が他者が消滅するというゲームに参加することになる。それは四国の人間が消滅したということからも明らかだ。人を殺すことの不可能性が消滅の美学に変わるとき倫理的基盤はどのように変わるのかという問いを出してみてもいいかもしれない。相互性を見せかける「魔法」としての「自然体」や幼児で会話はつたないが頭はよいという想定の「魔女」とか、「悲恋」ような相互性があるかのような見せかけそれ自体のロボットとか、死者の復活であり、相互性を認識せずかつ隠そうとしない地濃鑿の破滅的な根源的利己主義であるとか、無関心を装っているような世話係とか、他者を実験台としてしか考えない博士とか、自らの生存のために他者を絶滅しようとする=つまり他者がまだいるという「凡庸な」少女とかである。