風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「魔法(無知)は力なり」2

コンピューターについて重要な点はまさにコンピューター自身が、「どうなっているかは決して分からないにもかかわらず、簡単に利用できること」を知っているという形式にある。コンピューターは自己言及の弁証法的おしゃべり、つまりヘーゲルの自由の見世物をみずから実行できるのである。ここで単純な非難があがる。そうはいってもコンピューターをプログラミングしているのはやはり人間だし、それを作っているのもいくら我々にとって間接的とはいえ人間ではないのか。それには簡単にこう答えよう。それは誰なのか、と。我々はコンピューターに日々新しく導入されるデータに「誰かが」という以外に答えようがあるのか。ひとつだけ答えがある。それは「コンピューター」が、という答えだ。なぜわからないことを検索すれば何かが分かったことになるのか、誰にも理解不可能である。日々更新され、新しく記述されているものにどうして理解など可能なのか。コンピューターは間違いなく理想的な分析家なのだ。我々はまずコンピューターにわからないものを自由連想によって「検索」する。そうすると転移が始まってそれに対する答えを自分で見つけることができるようになる。それで我々はその疑問を「解消する」。コンピューターはいとも簡単に我々を「無知の主体」に代えてしまう。ソクラテスよりもずっと確実に。では我々はどのようにして科学と魔法の区別をしているのか。むしろこう言うべきだろう。どのようにして我々はそれが「魔法」だということを知るのか、と。このことが我々を「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」という言葉に連れて行く。西尾維新悲鳴伝ではこの言葉のすぐ後に「高度に発達していない魔法なら、科学に見えるかもしれない」という言葉が続く。これはどういう意味なのか。このまま『伝説シリーズ』のアフォリズムを続けてみよう。「魔法の不在は魔法少女の不在を意味しない」(西尾維新悲痛伝』)上記の文章を論理的に考えるなら、魔法少女は魔法の存在に先行するということになる。つまり魔法があって魔法少女があるのではなく、魔法少女がまずあって、それから魔法があるのである。さらに引用すると「魔法を使うことはたやすくとも少女であり続けるのは難しい」となる。つまり少女は魔法を使うと何か別の存在になってしまうのである。悲痛伝の文章とあわせて考えると、これは魔法少女はだんだんと魔法それ自体になってしまうというふうに読める。これはどういうことなのか。