風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

永遠の三日天下2

バタイユと彼の世代の人々が、サド侯爵の恐ろしい相貌の前を長く立ち去らなかったのは、われわれの時代のすでに十分不健康な雰囲気に加わろうなどとしてのことではない。そうではなくて、彼らがサドの運命の諸状況のうちに、当時自分達の周囲において、はるかに低俗化された形で見られたものの前兆を発見していたからなのだ。つまり、社会階級から締め出されたかないしは階級づけのできない一人の男が、社会の分解状況のあいだ保とうと努めた限界位置である。(…)ここにおいてこそ、この男はこういぶかるに至るのだ。いったいいかなる点で私は同時代者たちの同胞ではないのか。またわたしの同胞を、いかなる点から私は見分けうるのか?」(ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』)
「一社会の歴史のある特定の時期において、一つの危機のおかげで、人間を虐待するための想像しうるありとあらゆる動機を支配の体系として樹立することができるとき、また他方において、それと同じ時期に、ある個人が、自分の私生活から出発して、自分だけのために人間存在の観念に再び異議を申し立てるとき、不当に加えられる暴力を見ることが、この孤立した精神にとっては、精神的体験の一可能性として感知されると同時にこの可能性への裏切りとして感知されることは避けられない。」(同上)
サドのジュリエット西尾維新の玖渚友のような怪物はどのようにしてまた新たに作り直すことが可能なのか。このような完全な存在は破壊されずにはおかない。「成長」することによって、普通の女性に戻ること。もちろんこの点はわたしにも依存はない。しかしその「普通に」とはどのようなものなのか。普通に狂っているということだろうか。このような女性存在よりも、男性の方の変化の方が重要なのではないか。いーちゃんしかり人吉善吉しかり。いーちゃんは確かに新しい普遍的な意識の一つだった。空々空はもっと完璧な存在だがそれでもまだ存在論的差異を保っている。コンピュータよりも空虚な人間存在。コンピュータよりも空虚でなくては英雄になる資格がない。ロボットに乗る人間とはこのことの妥協形態である。ロボットだけでは英雄になるのに十分な空虚ではないのだ。空虚には欠けているものが必要だからだ。ちょうどブラックホールのように歪曲している人間存在が。しかしこういったものが長く続くことが可能なのか?他者の絶滅を維持し続けること。うっかりすれば世界を救いかねない被害妄想に耐えながらあくまで他者を否定し続けること。