風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

想像力の独立と狂人権の宣言

「確証として、われわれはつぎの真実を告げる。すなわち、すべての人間は自分達の狂気のもとで平等であり、狂気(下意識の内奥宇宙)は人間精神の共通基盤を形成するのである。」(ダリ『ダリはダリだ』)
独自の狂気を、独自の事故を創造すること。人間の事故化と事故の人間化。人間が公害であると言うのなら、まさしく公共化された事故、つまり公害こそ唯一の表現基盤だということになるのではないか。この点で理想的な公害とは「大いなる悲鳴」であるということは、もはや了解済みの「事実」である。空々空や化学兵器や魔法などはすべてこの「大いなる悲鳴」を模倣するために造られているということ。なぜ公害なのか、それは工業社会を唯一説得力を持って迫害することができるのは公害をおいて他にないからである。では狂気と公害はどのように結びつくのか。それは工業社会に反対するということはすなわち現実原則を侵犯するという機能を持つからである。ニーチェが科学の勝利ではなく科学に対する科学的方法論の勝利であると言うとき、それは科学的方法論が侵犯に使われるということはもはや不可能になっているということ―――原爆や人間の絶滅や生物学的変容など―――、もっというならこれらが有効性の次元でしかもはや使われることができないということ―――だれも気晴らしに原爆を使用することができないということ―――こそ科学的方法論と現実原則の一致にほかならないのである。しかしラカンが原爆よりコンピュータの方が危険であるということを言うのは、コンピュータの電子空間が科学の自然法則、すなわち象徴的法を無効にしてしまうというところから来ている。コンピュータは科学的世界観を侵食していく、つまり食べていく核兵器を廃絶するとは科学的消費を廃絶するということと同義なのだが、コンピュータはその科学的消費を媒介してシミュレーション可能な魔法にしてしまうのである。魔法の本質は科学と同じで繰り返し実験し、結果を得るところにあるのだが、魔法が科学と違うところは、結果だけを反復するところにある。コンピュータは科学と魔法を媒介する。コンピュータは奇跡を生産するのであり、ここからロボットと魔法少女という二つのパターンが出てくる。反復を行なうのか、それとも奇跡を行なうのか。問題なのは意志と反復を結びつけるのか意志と奇跡を結びつけるのかということにある。だからこそ意志の存在しない空々空にはこの両者を統合することができる。ここで「意志」というのはニーチェ的な意味でであって、「自由意志」や「定言命法」などではない。