風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「魔法(無知)は力なり」3

では最初から考えてみよう。なぜ高度に発達した科学は魔法と区別がつかないのだろうか。その答えは先の魔法少女の概念と同じである。科学の概念自体が魔法を内在的に有しているからなのだ。科学は使いすぎると魔法と同じになってしまう。その存在論的差異はなんなのか。それは科学の主体の有無である。つまり探求の、合理化の過程によって作り出された科学がもはや主体的関心の対象にならなくなったとき科学は魔法になるのだ。この定義はずいぶん荒っぽいが、本質的であると考えている。科学自体があまりに複雑化して理解できなくなったとき、魔法になるのだ。ちょうど理性があまりに複雑化して理解できなくなったのでそれが科学的認識の対象になったように。だから魔法少女は魔法に先行して存在しなくてはならないのだ。さてこのことの政治的帰結はなんだろうか。ありとあらゆるロマン主義の勝利はまさに自我理想をそのまま実現できるということに現れる。どのような現実的な障害も愛と魔法の力で粉砕する。魔法にはそもそも説得するという手段が存在しない。魔法はふたたびそれを科学的認識の対象とする以外に解明する方法はないのだが、もはや魔法を次々と生産してくるプログロマーたちに対抗してそれを解明するなど、同じプログラマー以外論理的に不可能である。コンピューターは万人に開かれているように見えながら、ありとあらゆる無知蒙昧と文盲を生産するだけなのだ。数年立てば、我々はおとぎの国に住んでいるような状況になるかもしれない。つまりアリスのような状況になるかもしれない。こうなると文字メディアもまだまだ捨てたもんじゃないと自己宣伝をしたくなるだろう。実際文字メディアは我々に認知地図を与えてくれるかもしれない唯一の道具であり、ありとあらゆる超能力やら奇怪な文字の組み合わせやら、少女やらで、多少は理解しやすいものに変えてくれる。さらにこれは重要なことだが、我々自身その文字を使って意味のある言葉を表現できる。だが本当にそんなことでコンピューターに対抗することなど出来るのか。めんどくさく長く書かれた文章よりアニメや漫画の方がずっと分かりやすくて単純ではないのか。(私は表現を創るのが簡単だと言っている訳ではない)たとえば文字メディアではラカンの文章は死ぬほどめんどくさくて分かりにくいが、映画だとラカンの言っていることは実演されており、すぐ理解できるのである。あの弁証法的ぺちゃくちゃおしゃべりをもう一度復活させろというのか。あれの行き着く先はベケットの小説のように完全なる袋小路ではないのか。