風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

想像力の独立と狂人権の宣言2

「夢くらい見たっていいじゃないか。人類が絶滅する―――夢くらい。」西尾維新『非業伝』)
ロボットも魔法少女も現実原則を破壊するという点では一致する。それが過剰な隠蔽と過剰な露出という差異はあるにせよ。しかし「悲恋」が「女の子」として「全裸」で現れたということはどういうことなのか。ロボットと魔法少女の統合―――しかしまったくうまくいっていない統合なのだろうか。空々空は女装するとうまくいくのに「悲恋」がうまくいかないのは、どういうことなのか。この説明は簡単なように見えるが、しかし案外わからない。簡単だというのは空々空は人間であり、「悲恋」はロボットだからである。わからないというのは空々空は人間以外の特徴ではいかなる意味でも魔法少女に似ていないのに、逆に「悲恋」は人間ではないという特徴以外ではすべて魔法少女の特徴を備えているからである。単純に言うと空々空がいるというだけで全てがグロテスクになる。彼の最初の「装備品」が透明になるというスーツ「グロテスク」であるということ、しかも透明なのにグロテスクになっていくということ。空々空については考えれば考えるほどわからなくなっていく。それでも考えていこう。空々空は「現実」を直接に見ることができるという。これがラカン現実界をいっているのは明らかだが、空々空はある意味では現実界が存在しないのだといっていい。現実界象徴界の反動として現れるのだから。もちろん思考実験の場合なので言語的な意味における象徴は存在しているとは言える。ないのは対人関係における鏡像である。しかしここまでだったら、空々空は西尾維新の他の男性達と同じだろう。違いはその比類ないカント的な完璧さにある。定言命法しかない故に、定言命法が存在しないのである。病的な部分が欠けている。そしてニーチェ的な意味での意志もまた存在しない。しかし葛藤はある。何に対する葛藤か?他者がいないという葛藤ではないか。だが他者がいないということに悩めるなら、それは他者がいるということではないのか。どういう意味でニーチェ的な意志がないといえるのか。それは彼の自己克服の不可能性である。彼は自らを超えることはできない。彼は自らの自己をすでに克服してしまっている。彼には真理への意志も権力への意志もすでにない。もう言葉全てがすでに間違っているような気がする。超人と末人の区別がつかない。正しいだろう。では彼は何と区別がついているのか。ロボットと区別がついているということか。ロボットとしか区別がつき得ないということなのか。なぜなら普通の人間との存在論的差異はなにひとつないからだ。むしろなにひとつ差異がなさすぎるのであって、それこそが脅威だということではないのか。いーちゃんの「無為式」。しかしそれではいーちゃんと空々空の区別は何なのかという問いが起こる。もちろんこの答えはいーちゃんは十分に全てが欠けているとはいえなかったというのが推測できる答えではあるだろう。しかしこれでも空々空がなんなのかという答えにはたどり着かない。むしろたどり着かない様になっているのではないのか。空々空は人間ではなく現象である。よって説明ができるだけであり、理解することはできないということか。しかし理解できなくても利用することはできる。だからコンピュータの役割を持つことができるのだ。