風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

人肉を食べるキリスト

聖人は無を食べる。人間の残り屑を。人間というを。天上のパンとしての人間。

を殺し続ける集団としての零崎一族。愛による殺人集団。

家畜としての人間存在を流通形態にしても、消費の欲望は決して満足されないこと。幻想郷ですら、一つの社会体制である以上、そこには矛盾と不満が必ずある。地底と、弱者という二つの問題点。家畜ではなく信仰という形式の流通形態が勢力を拡大する。残っているのは天邪鬼だけだ。

西尾維新には期待しえるような何かがあるのに、実際読んで見ると、なにかが足りず不満に感じられる。だがほかの作家の作品と比べると、たちまち西尾維新の優れていることが明らかになる。まるでジジェクが言うラカンの説明のようだ。「ラカン精神分析は疑いなく「最悪」であり、文字通り滅茶苦茶であるがそれをほかの理論と一つ一つ比較してみると、たちまちそれ以上のものがないことが分かるのである。」(スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』)

一度として間違われたことのない場所では、自分自身がまず凡庸に間違えなくてはならない。

西尾維新ユートピア。殺人者と愉快に会話できるし、平気で裏切れるし、殺しあっても友情がある。ただ、自身の欲望に責任を取らない者はただちに殺される。西尾維新の世界は行き詰っているのではなく、まったき行き詰まりそのものである。

問題となるのは理性的存在を食べるということだ。ここでもブラックジャックの木霊が聞こえる。自身の身体を賭けるということ、労働力ではなく、自分(の享楽)を商品とすること。野蛮人のように食べるのでは何の意味もない。

科学は人間を食べることができるだろうか?科学の教義は実験であって、人間を食べるとはひたすら人間を実験することを意味する。しかしコンピュータは人間を食べているのではないのか。現にコンピュータの中は人間でいっぱいではないか!このことと「カービィ」というキャラクターを比較すること。能力を食べてコピーするというのはきわめて象徴的ではないだろうか。