風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

悪い冗談だって?しかしもうたくさんだ!

偉人!―――ある人間がいわゆる「偉人」であるからといって、その人間がひとかどの人間だなどと断定することはゆるされない。もしかしたら彼は、ただの子供であるかもしれないし、年齢ごとに色を変えるカメレオンか、それとも魔法にかかった少女であるかもしれない」(ニーチェ『悦ばしき知識 208』)
魔法少女が世界を救うなどというひとつの冗談がどのようにして真剣に取られるようになったのか。魔法少女を真剣に取らせるようになった一人の作者である虚淵玄は典型的な神の享楽の表現者ではなかったか?(あるいは、だった)我々は「サイコパス」において神の享楽の至高の表現を見ることができるだろう。つまり槙島聖護のカント的に「崇高な」犯罪によって。これに正確に対応しているのは狡噛慎也の「ヘルメットがなきゃなんの犯罪もできないクズどもだ」という言葉である。ここで(少なくとも神の享楽についての)物語は終わるべきであった。そのあとはまったく「嘆かわしい」数々の事件と槙島が狡噛に殺されるという予定調和だけであった。では魔法少女の方は?結局、また悪循環にはまっているのではないのか?欲望は決して享楽と同じに走ることは許されない。法がある限り享楽のループが終わることがない。愛とは信じられないぐらい邪悪で永遠なのである。魔法少女の享楽のループはより「上位」の魔法少女を創ることでしかない。そこで私はこの冗談に対してもっとたちの悪い冗談はないかと探してみる。あるじゃないか、「悲鳴伝」が!空々空が英雄であるということ、これは魔法少女よりはるかにたちの悪い冗談である。実際、伝説シリーズで魔法少女はどのように扱われているか?恥ずかしい服を着て現実原則を破壊する馬鹿である。ようするに全部そろっているのであり、魔法少女は徹底的にひとつの冗談として捕らえられている。空々空は魔法少女なのだろうか?しかし彼は魔法少女とは恥ずかしい服を着た馬鹿にすぎないことをただちに見抜くので、そこから恥ずかしい服だけを頂戴し現実原則を破壊する。もっとも、最初から現実原則など持っていない空々空にとってそれはひとつの余計なことにすぎないのだが。むしろ彼は魔法を使うことによって現実原則を認識するのである。それに彼は恥ずかしい服を着た馬鹿よりも科学の方がはるかに信頼にたる殺人道具だということも認識するのである。立派な狂人が作った科学の前に現実原則の破壊など何であろう!とはいえ彼は馬鹿の恐ろしさを認識していないわけではない。馬鹿は死者を復活させるのである。これは何か相当に恐ろしいことであり、ほとんど犯罪である。そしてここまでひとかけらも享楽は問題にされてすらいない。空々空は残念なことに享楽を全然理解しないのである。「目的なんてないけれども――それでもいいのであれば、つまり僕に見返りをくれないのであれば、仲間にして欲しいものだね――」(西尾維新『非報伝』)それでも悲鳴伝に比べれば「成長した」のであるが。何が成長したのか?彼は人間の機微というものを計算に入れることを学んだのだ。これこそ本当の意味での奇跡である。