風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源2 帝国主義』3

「諸権利を持つ権利―――これは、人間がその行為と意見に基づいて人から判断されるという関係の成り立つシステムの中で生きる権利のことを言う―――というようなものが存在することをわれわれがはじめて知ったのは、この権利を失い、しかも世界の新たな全地球的規模での組織化の結果それを再び取り戻すことができない数百万の人々が出現してからのことである。この悪は抑圧とか暴政とか野蛮のような歴史上知られた悪とはほとんど関係がない(従っていかなる人道主義的療法をもってしても治療不可能である)。この悪が生まれ得たのはひとえに、地球上に「文明化されない」土地がもはや一片も残らなくなったからであり、われわれが望むと望まざるとにかかわらず現実に「一つの世界」に生きるようになったからである。地球上の全民族が現在も抗争はあるにも拘らずすでに一つに組織された人類となった故にこそ、故郷と政治的身分の喪失は人類そのものからの追放となったのである。」
「正しさを何かにとっての善―――個人にとってであれ、家族、民族、あるいは最大多数にとってであれ―――と同一視するような法の把握は、宗教もしくは自然法の絶対的、超越的規範が権威を失ってしまったときには避け難く姿を現わす。そしてこの考え方の難点は、何かにとっての善というときの何かがたとえ全人類にまで拡大され、一切は人類の幸福を目指すべきだとされたとしても、少しも変わりはしない。なぜなら、人間を一人残らず完全に一つの組織に組込み統制するようになった人類が、ある日きわめて民主的な方法で、つまり多数決によって、人類全体にとっては一部の人間を抹殺するほうがよいと決定するというようなことは考えられないわけではなく、実際的・政治的可能性の範囲内にさえ入っているからである。われわれはここで極めて現実的な問題として、政治哲学の最も古いアポリアの一つに直面しているのである。揺ぎないキリスト教神学がすべての政治および哲学の問題の枠組みをなしていた間は、このアポリアはわれわれの目には触れずに済んでいた。しかしそれはすでにプラトンをしてこう言わしめたアポリアである。「人間ではなく神が一切の基準でなければならない。」

ハンナ・アーレント『全体主義の起源2 帝国主義』 - ピンキーの爆発現場