風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

左翼的ファシズムの可能性3

ニーチェの国家原理はいかなる権利の要求もひとつの侵犯の享楽と見なすが故に、立法者の貨幣価値をあげることにしかならない。だから立法者になればいいのだが、現在の世の中で立法者になるということは、どういうことなのか?社会的成功を得ればいいのか?パートルビーの立場はそのような社会的成功者にしか与えられないのでは?またはバートルビーの立場しか取れないものはどうすればいいのか。もう権力の強さがすべてというわけか?もちろんそれはそうなのだが、そのための理論的布置すらないというのか?こうなるとファシズムは合理的な選択肢になるが、ニーチェの国家原理からすればこのことは悪循環でしかない。原発問題も日米問題も道徳的趣味ということに過ぎないのか?確かにそうならざる得ない。それ以外理解不可能である。生きる為に、という時点でもうそうだとしかいえない…。もちろん敵対は可能だが、そこからニーチェの国家原理を生み出すためには、必ずファシズムがなくてはならない。そしてそれは伝統的な価値観をもった保守派がその役割を引き受けなくてはならず、左翼はそれに反対しなくてはならない…。つまり神々のためのお芝居を演じるということ…。私は大衆の趣味を悪く取りすぎているのかもしれない。だが共産主義的な趣味にしたところで同じことではないのか。つまり、
「[25]『行為しないことよりも、何かするほうがずっといい』という古い格言は―――なすべき正しいことが存在する状況でしか正しくない。その場合には、正しいことが存在しなくても、行為はすべていわば正しいことが支配する空間が、正しいことによって秩序付けられた空間において行われる。しかしわれわれが経験したのは、何をしても誤りであると言うべき正反対の状況であった。その状況は不正によって支配されるべき状況であり、不正によって秩序づけられている空間である。それは全体的な不正の状況―――すなわち本来なら決して現れてはならない状況である。そのときには全く何もしないことこそ推奨すべきことのように思われる。そこでは正しいことが不正になる。たとえば脱ナチスの作業に加わった人々は、そういった状況に陥ったのである。何をしたにせよ、したことは誤りで、新しい不正を生み出したことだろう。すなわち人々は行為によって、ナチスが作り出したものと同じような全体的な不正の空間で行動したのである。」(ハンナ・アーレント『思索日記Ⅰ ノート8 1952年2月』)だがこれもひとつの道徳的趣味ではないのか?「愉しまないことが許されている唯一の言説」だとしてもその言説によってなぜ愉しんではいけないのか私にはわからない…。