風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十七回目の爆発『表現の自由』

表現の自由による言論弾圧にどう立ち向かえばいいのか。つまり表現の自由を支配的権力に利用されるのかそれとも表現の自由そのものに直接攻撃を仕掛けるのか。自由な表現が可能なのは解放されるべき言論実践と検閲が同一化していない場合にしか可能ではない。もしさらなる自由な表現を求めるならば人類から追放されるしかないだろう。
・選別の基準は人類の経済的規範から排除されていることであるがゆえに、人類から追放された者は「選ばれた特別な人間」でなければならない。そうでなければそれは人間ではないのだから。排除された人間は選別の回帰の妄想を持つ。(階級闘争は社会内の地位の低い人の考えである。だから独裁が要求されるのだ。)回帰の考えは革命とは違い、すでにつねに自身が経済的秩序に(神の恩寵に)組み込まれているという思考法なのである。
・回帰は成り上がりではない。成り上がりは評価基準を変えないからだ。また隠居でもない。それは自身が例外的な地位にいることを保証しているだけであって、「選ばれた特別な人間」のための秩序には入っていないからである。
永劫回帰はこのような回帰自体を思考しうる事実として規定することで、回帰自体が秩序の規範となる。だから一切は回帰するのだとしても地位の変化はなく地位の概念は排除される。一切の価値の価値転換とは革命のような地位の交代ではなく、秩序の規範が変化の規範になるということにある。ここには新しさの代わりに解釈の大きさだけが問題となる。その解釈の大きさもまた解釈によってのみ規定されるのだが。
・解釈の大きさは理解が可能か不可能かによって決定される。この理解は明晰であるかどうかではなく流通する規範にどれだけ抵抗するかどうかという意味での理解不可能性であって、理解不能であることが即座に見破られるような種類のもののことではない。
・だがそれは表現なのか?それは身体的現前として一種の悲鳴のようなものではないか?声にならない叫びといったようなものではないか?そのような言語ゲームが記述されるべきなのか?『悲鳴伝』。