風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

哲学者のための本当にぶよぶよした前奏曲

ヤスパースハイデガーどちらもヤスパースは「どうしてこれほど哲学者に知恵がないのか」と言えるだろう。ハイデガーは「どうして思想家は相変わらず知恵があると偽るのか。そういう資格がどこにあるのか」と言うかもしれない。―――どちらも正しい。」(ハンナ・アーレント『思索日記 ノート1 1950年8月〔23〕』)
政治哲学。孤独と言う観点で哲学を考えることは、孤独を複数性の一つの可能なあり方として理解することを意味している。哲学を尺度として政治を判断することは、複数性について孤独に有利な判定を下すこと、孤独のうちに獲得されたものでない経験はすべてまともなものとみなさないことを意味する。」(ハンナ・アーレント『思索日記Ⅱ ノート19 1953年1月 〔14〕』)
「共通世界の崩壊は、崩壊に巻き込まれた人々を極度に主観主義的な認識論の状況に投げ入れる。誰も現実では自分の知覚像しかもたず、見えているテーブルが実在しているテーブルに対応していることを絶対的に確認することはできない。なぜならテーブルの実在性こそわれわれを共同性のうちに確立させるものだからである。こうなると、結合し分離させる〈間にあるもの〉としてのテーブルは抜け落ちてばらばらの個人のが残ることになる。この群を結合するためには、しかもそれにもとづいて相互関係が確かに結ばれる「テーブル」が再び世界のうちに存在するような形でこの群を結合するためには、感覚知覚を画一化して、どの視点から見てもすべては常に同じように同一の知覚原理を再生し、そこには無限に反復可能な実験の確実性が伴っているとする以外に道はない。物理学から借用された「群」と言う用語は、こういう意味で事態の特徴を非常によく表している。画一化によって、まさに常と異なりそれぞれに独自のものである感覚知覚が統制される。なぜなら、あらゆる差異のうちにあって同じもの、すなわちある共通の対象を認識させてきた共通感覚が失われたからである。その代わりに登場するのが科学的確実性であって、そこでは認識する者は、入れ替え可能で交換可能でなければならない。もはや共通ではない世界では、実在性を確信できるためには、人間は区別できないほど相互に似たものになるほかない。」(ハンナ・アーレント『思索日記Ⅱ ノート20 1954年10月 [40]』)