風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ゲーム的世界観における「自然への回帰」2

「どうして道徳的欲求を非難することがあろう。生産関係の変革など狂気沙汰だ。美のファンタスムなど我々には必要ない。我々が求めているのは幸福と平和であり、そういう労働を搾取するような理解不能な美のファンタスムを一切なくそう。我々は自身の道徳的人格が立派にならなければならないなどということは御免被る。そこそこまじめに働き、労働時間によってお金を得る、それで好きなように消費するのがいいんだ」。「自然への回帰」は一般的に自給自足や大自然に囲まれておいしいものを食べるというような形式で一般的に表現される。重要なのは「自然への回帰」が生産関係の変革による人格的欲求を一切伴わないユートピア的欲求であり、ある程度の貨幣収入があるような中産階級が主体であるということである。というのはプロレアタリアは当然切迫した状態にいるわけだからこんな流暢なことが言えるわけがないからだ。「自然への回帰」は革命を美のファンタスムとするようなマルクス主義と違い、そのような超越性のなさ、感覚的な欲望と際限なく理解される過剰な共感によって支えられている。そもそも自然へ回帰とはどういうことなのか。それは貨幣による交換体制以前戻りたいという「自然な」欲求である。つまり理解不可能な存在があってはならないのだ。そんなものがあれば貨幣を導入することで美のファンタスムが生成してきてしまうことになるからだ。だから彼らは芸術作品を創造するのではなく、「自然の」風景や「天然の」温泉やおいしい「自然の」食べ物などを欲求するのである。自然が美しいのはなるほど言うまでもないことだ。だがすぐ分かるようにこの「自然」概念は自明の前提として措定されている。それは決してサドの言うような「自然」ではない。もしそんなことになればすぐに「自然からの人間への天罰」というような形で自然の概念が正当化されてしまう。だから「自然への回帰」がどんなに素朴に見えようともそれは自然を制御するための高度なテクノロジーを常に同時に伴わざるを得ないということに注意しよう。カメラ、浴場、ガスコンロなどの調理表品、どれひとつとっても高度な科学である。そういう場所に移動するための手段も車やバイクなども高度な機械である。そしてその宣伝手段がテレビというこれまた高度な機械ときている。ということは、この「自然への回帰」が技術を純粋に享楽したいという欲望と大差がないと言う事もできるのではないだろうか。技術が社会によって人間を統治する技術として使われていることへの復讐としての「自然への回帰」。資本主義にとって自給自足はいかなる使用価値も手段として扱わないが故に、もっとも価値の低い生産手段であるのだが、それを技術によって眺めるという行為には何らかの交換価値がある。つまり自給自足とは貨幣交換なしの原初的生産関係の美のファンタスムだということだ。そのための代価とはなにか?万人の家畜化である。というのはどのような交換価値を持つ生産関係も形式的平等という人格的価値を必要とするのにそれを放棄しようとするのは、動物になるほかないからである。