風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

永遠の三日天下

意志と応諾。―――ひとびとが一人の若者をある賢者のもとへ連れてきて、言った。「見てください、これが女たちのために堕落させられた者です」と。賢者は首を振って、微笑した。「男たちこそ―――と彼は叫んだ―――女どもを堕落させるものだ。女性の欠陥のすべては、男性がこれを償い矯正しなければならないのだ。―――なぜといって男が勝手に女性の姿をつくりあげ、女性はこの姿をモデルに自分を形作るからだ。」―――「あなたは女に対して親切すぎる―――とまわりにいた者の一人が言った―――あなたは女というものを知らない!」賢者は応えた。「男の本性は意志で、女の本性は応諾である。―――これこそ実に両性の法則である!女性にとっては苛酷な法則というものだ!すべての人間がおのれの存在に対して咎がないのだが、さらに女性は二重に咎がないのだ。彼女らを充分に宥めたり優しくしたりしてやれる者などいるだろうか。」「何が宥めだ!何が優しさだ!」と群衆のなかのもう一人が叫んだ。「われわれは女たちをもっとよく教育しなければならぬ!」―――「われわれは男どもこそもっとよく教育しなければならないのだ」、こう賢者は言って、例の若者についてくるようにと目配せした。―――けれども若者は彼について行かなかった。」(ニーチェ『悦ばしき知識 68』)
たとえば春日井春日のような人間や、鑢七実のような人間が現実に現れてくれたらな、と時々思うときがある。しかしなんといっても私が一番現れて欲しいと思うのは黒神めだかである。玖渚友や哀川潤もすてがたいが。もっともそういうやつらが現れたら、私は全力で逃げるが。なんというか「少女」とか「戦闘美少女」とかいう概念はもはやすっかり腐敗してしまって、ある意味表現が不可能になっているとでもいうような気がする。新しい女性概念というものを創造しなくてはならないのではないだろうか。軟弱な男性のための女性ではなくなにか別の男性による女性が。少なくともニーチェによる愛の定義を聞いておかなくてはならないだろう。「すなわち愛とは―――その手段においては戦いであり、その根底においては両性間の命がけの憎悪である、と。」(ニーチェ『この人を見よ』)ニーチェはここで男性を「子供を生ませるための手段」と考えており、徹底的に女性に優位を与えている。私は太宰治とともに早く男女平等の世の中になって欲しいものだと心から感じる。もっとも私は社会的な男女平等などが実現するなどということは信じられないし、女性の権利と女性を分離可能だと少しも思えない。問題なのはどうしたらフェミニズムとは関係ない自由な女性というものを男が考えることができるかということだ。男性のあまりの軟弱さとペテン沙汰に反対して、どう考えるべきか。