風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ゲーム的世界観における「自然への回帰」

マルクス主義の息の根を完全に断つために、マルクス主義が広い支持を獲得しうる肉体労働者のことを考えてみよう。ここで私が肉体労働者と呼ぶのは商品フェティシズムを起こさないような商品を作る労働者、つまり、理解不可能な美のファンタスムを直接には生産しないような労働者という風に定義しておこう。このように定義しないと、なぜ肉体労働者の労働力の使用価値が労働時間によって規定されるのかが分からなくなるからである(たとえばスポーツ選手などのような存在は肉体労働者とはいえない)。なぜ肉体労働者の賃金は労働時間によって規定されるのだろうか。それは結局、肉体労働の懲罰的な性格という単純な事実に還元される。産業的次元における労働時間の価値は、その労働の苦痛や不幸の量に依存する。肉体労働に懲罰的な性格が付きまとうのは、肉体労働者の使用価値が美のファンタスム(ブルジョワイデオロギーと言ってもかまわないが)による労働の搾取によって価値を得ているからにほかならない。もしこの搾取がなくなってしまえば、美のファンタスムの価値はまったくなくなってしまい、労働時間と使用価値の間にいかなる関係も成立し得ないことが露わになるだろう。だからこそ肉体労働者の使用価値=時給は美のファンタスムの恣意性―――美のファンタスムがその労働をいかに美の価値を高めるやり方で搾取できるか―――にかかっているのである。このことは肉体労働者は自身の使用価値を最大限に高めるような道徳的人格(美のファンタスム)を作るためにのみ、自身の賃金が支払われると言うことに等しい。まさにここにこそ情欲と理性との対立という道徳的善悪のテーマのすべてが存在する。マルクス主義はここで道徳批判を行なうのではなく、現在の生産関係を変革し「虚偽に満ちた」ブルジョワイデオローグを打破した「善良な人間」の牧歌的なユートピアでは、自身の人格的欲求と使用価値を一致させることができると考える点にある。このように考えるとなぜマルクス主義は、自分に都合の良いイデオロギーを流布できる上流階級でも、自身のある程度の賃金で美のファンタズムを消費できる中流階級でもなく、下流階級のように自身の賃金では人格的価値も美のファンタズムの消費もできないプロレタリアに狙いを定めているのかが分かるはずである。ところでそうするとマルクス主義の弱点がどこにあるかは明白である。人間の人格的欲求はイデオロギーによって「抑圧」されているのではなく、美のファンタスムにおける使用価値によって「生産」されているのだから、生産関係をどのように変革したところで道徳的人格は必然的に発生するし、それによって美のファンタスムによる搾取が行なわれるであろう。だからマルクス主義に何らかの「使用価値」があるとしたら、それはマルクス主義における美のファンタスム(善良な人間の牧歌的なユートピア)のために労働者を道徳的に組織化して搾取することで、より高度に搾取できる生産関係を確立することにしかないのだ。マルクス主義にとってユートピアの考えは道徳的神における「永遠の生命」と同じく絶対に必要である。あらゆる共産革命は相対的に見て生産手段の低い地域が高度の資本主義成立の手段となるためにのみ存在する。たとえ資本主義のあらゆる野蛮な暴力の行使に反対するために組織されたものであってもである。もし共有財だけを資本から奪回するというような考えでも、あらゆる私的所有の廃止がとともなわない限り、労働力を使用価値のみとして使用することは常に可能である。逆にあらゆる私的所有が廃止されるのなら、交換価値の一切はなくなり、人格的欲求も一切が消え失せ、非人間的な怪物性の人間に対する支配か、人間の家畜化が完成することになるだろう。とりわけ後者が見事なまでに表現されている「自然への回帰」を次は見てみよう。