風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

無題

寒気がするようなストイックと絶望的なまでの天才さ。馬鹿さとは何かという問いに答えることほど難しいものはないのではないのだろうか。馬鹿さとはひとつの道徳的解釈ではないだろうか。永井均の言うとおりすべての怒りは義憤ある―――つまり何らかの道徳的解釈にのっとった攻撃である。理性に病的なまでに犯されている人間は馬鹿さに憧れを持つのと同時に憤懣やるかたない憎悪を抱く。絶対馬鹿さとかわいさ。かわいい存在とはひとつの論駁である。かわいいは正義。かわいいは最強。どうしようもないような強力さ。かっこよさとはひとつの宣伝と特性の区別のなくなる地点なのだろうか。あらゆるキャラクターのかっこよさとかわいさ。論理とはこれらのものに対してゴミのような存在ではないのか。まさしくこれらの排泄物、ゴミであるが故にそれを食べるというわけだ。論理的人間とは一つの形容矛盾だが、しかし論理的人間の不幸というのは存在するのだ。なにもかも論理にしなくてはならないと思っているような人間が。正しくなければ生きる価値がないと思っている人間が。このように言うことは正しい。救いようもなく正しい。そして正しいだけだ。正しい正しい正しい正しい。そのような限りのない正しさが愚劣の限りと馬鹿さと信じられないような狂信を生み出すに至る。狂っている?上等だ。このような不遜さはやりきれないものであると同時にいつも憧れの対象でありなんの得にもならずなんの徳にもならない、絶対的な不幸だ。悲しみが不遜さによってどうしようもなく汚染され、同情が、世間が、人間が、言葉が、何も入ってこないときにだけ音楽は入ってくる。音楽のリズムと清潔さ。だからこそ音楽は旋律であり、旋律でなくてはならないのだ。あのような暗闇を慰める音楽が。どうにもならない不遜さと愚劣を慰める時間が必要だ。さようなら。あらゆる有意味さよ。なくてはならぬのはただの時間だ。あの闇と空間のリズムのある時間だ。散策と失策の繰り返しで前に進まず横にそれ、回り道を急いでまわれば落とし穴に落ちる。そうして苦しみながらあがき、あがきもがいている振りをし、諦めようにも強すぎて、行動しようにも弱すぎて、選択をするには愚劣すぎる数限りない葛藤がすべて馬鹿ばかしさとなって感傷と無意味さにしかならないとき、ため息すら一つの明るさにしかなり得ないとき、笑い声は聞こえてこず、自分が笑っていることに気付くだけだ。