風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

金儲けの哲学

「産業的製造の世界において、魅力を形成するのは、本性的に無償であると思われるものではもはやなく、本性的に無償であるものの価格なのである。情欲(伝達されないもの、あるいは伝達不可能であるもの)は、各人がそれを体験しうるという意味で、最初は差異を持たず価値を欠いている。ところが、いつでもそれを体験しうる各人が、即座に[無媒介的に]それを体験する手段を手に入れることができない場合には、情欲は差異を持ち始め、価格を増加させるのだ。もし最終的に、ある情欲が他に類のないものであったとしたら―――そして限られた個人だけが、類のないものとしてそれを手に入れることができるとしたら―――、その場合には、その情欲はまったく価値評価できないものとなるか、あるいは、それを体験したいという欲望によってそれに最大の価格が保証されるか、そのどちらかである。これがまさに、情欲を商行為化しようとする企てである。しかしながら、このような操作が金儲けの精神による醜悪な行いであると思うのならば、それはまさしく情欲の本性に対してみずから目を閉ざすことにほかならない。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
もし金儲けの哲学が存在するとしたら、それを万人に広めることこそがもっとも高い価値の哲学というものであろう。ところで経済学には金儲けの哲学というものは存在しないのである。そういう方法はすぐに万人に広められて価値を失うか規制されて効率的なものとして扱われるのかのどちらかである。「好きなことを仕事にしてなおかつあまり働かずにすみ高収入」であるような職業は原理的に経済学には存在しないということ―――これはもうこの時点で経済学を学ぶ意味は行政的な意味でしかないと告白することにほかならないが―――はすなわち不正を行なう以外に利益を得る方法はないということにほかならない。ただし不正という概念は次のような意味で理解されなくてはならない。つまり効率的でない貨幣の利用法という意味でである。そもそも貨幣の価値を支えているもの、つまり貨幣を手に入れたいという欲望はどこから生じるのか。それは貧困と死の恐怖からである。ただし資本主義においてはこれに可能性の獲得と、その可能性を失うことの恐怖というものが付け加わるのだが。貨幣を欲望の対象とするには安楽と安全の配慮のほかに放蕩と賭博というものがなくてはならない。しかし資本家は商品を買う可能性というものを直接欲望の対象として扱うのである。逆に貨幣を欲望の対象として扱わずに貧困を解決しようとする場合には、つまり単にあらゆるものを自然から生産しようとする場合には、欲望というものは存在せず家畜の水準に陥ってしまうことになる。パンを直接に求めようとするものにはいかなる価値も与えられない。