風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

金儲けの哲学3

サドが盗みを合法化したことは、私有財産というものの本質を彼が富めるものの貧しいものに対する搾取であると考えていたことをはっきりと示している。フーリエは「私がありのままの自然が私に与えてくれた盗む権利の代わりに、必要な道具と生活手段の前貸しを要求する」(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論Ⅳ[W15,1]』)と言う。私有財産の本質とは、貨幣が万人の価値の基準となるために盗みを「禁止」することにあるのだが、これが富を持っていないものから搾取を行なう為に絶対に必要な条件である。労働者はまさに自身の人格を「保証」してもらう為に労働によって金銭を得なくてはならないのからである。「生命維持の必要性と、生命維持が保証されているところからはじまる享楽のあり方のあいだに、そもそもの起源から、一種の脅しと恐喝が書き込まれている。この脅しは、程度はさまざまだが、個人的な欲求の次元で情動の要求を形成するのに貢献している。たとえばある個人の集団は、交換の諸規範を遵守し、それによって欲求のあるカテゴリーに沿うかたちでみずからを道徳的・社会的に定義することを受け入れるのだが、その欲求のカテゴリーは、その集団がみずからの生命維持の様態を守りながら、対応する財の享楽の様態に権利を主張するときの、そのやり方なのである。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)ところで私は資本家による搾取を批判したいわけではない。ここで問題なのは資本家が何を目的として搾取を実行しているのかということである。というのも金だけあっても何もできはしないからである。重要なのはあらゆる「自然」を欲望の対象として扱う為に商品形式にするということにこそあるのだ。貨幣の可能性は貧困の重石によってますます高められるのだから、自然に生産できるような対象などは一つも残してはならない。これが疎外ということの意味なのだが、消費行動が不断に欲望と対立する理由はここにある。つまり、人間たちの「生産的」生活が生産するものは、彼ら自身と彼らの生とのあいだの終わりなき齟齬の状態でしかない。貨幣の可能性が高まるにつれ、貨幣はその形態をますます抽象的なものへと変えていく。するとどこかで貨幣は貨幣という形態そのものを商品として売らなくてはならないはめに追い込まれるだろう。貨幣が銅や紙幣という形で生産されている限り決して純粋な交換の可能性を達成できない。たとえそれが物質でない電子貨幣であったとしてもである。こうして貨幣と貨幣は売買できないという形式が破られるとき私有財産の形式は破綻せざる得ない。もはや人間の解釈能力そのものが富の価値そのものなのだ。しかし人間の解釈が価値となるためには情欲の形式が貨幣の役割を引き継がなければならない。もちろん資本主義によって効率化された生産システムを手段としたうえでである。生きた貨幣はやりたいことをやりながら金を儲ける形式なのではなく、やっていることが貨幣として流通するということなのである。前者はやりたいことをやるという口実で人間のあらゆる能力が労働力として行使されるにすぎない。つまりやりたいということと金儲けを両立させているにすぎず、富そのものの生産にはなっていないのだ。人格の表現としての芸術(芸術作品とはかぎらない)は、商品として流通するのではなく、富の等価物として交換されるのだ。