風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

不正な富の友としてのキャラクターカード2

みずからを与える道を見いださなかった女はみずからを売る道を見つける」という、スタンダールが引用した楽屋内での諺を裏返してニーチェはこう書く。「誰も彼女を与えてもらいたいと思わないだから彼女は身を売らざるを得ない!」このようなかたちでニーチェは、情欲のプロセスそのものを言い表しているのである。」(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)
売られたキャラクターカードは、自身のレアリティに応じて金銭の価格を付けられる。「彼女」は豊かであればあるほど高く売られることになり、より多くの人々に「使用」されることになるだろう。しかし娼婦としてのカードは自身の人格の表現として利用されることはできないのだから、使用される方法は勝負に勝つためであるか、カード自体に享楽的な価値を認めるかのどちらかとなる。ところで、勝負自体に人格記号の生存競争としての勝ち負けとは別の享楽的価値を認めるならそれは結局同じことになる。カードは欲望の対象として扱うことはできても、行為は「禁止」されているのであり、欲望としての享楽は勝負に持ち込まれることになる。勝負のときの興奮とはまさにこのことだ。一方で自身を人格記号として代理=表象するためにカードがあり、他方にカードを欲望の対象とすることで享楽を得ようとするカードの使用がある。キャラクターとしてのカードは、人格記号を表現するプレイヤーに金銭あるいは生活の糧を手に入れるための手段を提供しなくてはならず、逆にキャラクターカードはプレイヤーの金銭や生活の糧を奪ってでも自身の存在を確固とし欲望の対象にする。ここには二つの限界がある。プレイヤーとキャラクターが人格記号、つまり生きた貨幣として一致してしまう場合と、プレイヤーとキャラクターが金銭として、命のない貨幣として一致してしまう場合である。後者はプレイヤーがカードのキャラクターとして売られることになり、前者はキャラクターがプレイヤーとして価値を実現できる。ところで一旦この記述を反省の対象としてしまえば、自らカードをキャラクターとして生産できるようになる。ただしそのためにはどうしても統一体としての人格が、代理=表象されるキャラクターとしての記号人格に同一化する必要がある。キャラクターとなるために必要なものは「強い願い」、つまり症候であり症候があればこそ主体としてキャラクターを代理=表象する必然性が生じる。では症候を商品としてではなく普遍的な貨幣として、導入するためにはどうしたらいいのか。