風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

明るい超人計画2

では人生の不幸によって打ち砕かれ、詐欺師の言葉に免疫を持つようなニヒリスト達にはどうすればいいだろうか。彼らには憎悪のための手段が必要になるだろう。というのも、彼らに残された唯一の夢は破壊のファンタスムだからである。正直なところこれに対抗するためにはシュミレーションがもっとも妥当な選択肢だと思う。例えば架空の世界を核爆弾で吹っ飛ばしたり、モンスターたちを殺したいだけ殺したりすることが必要になるだろう。これが検閲されるべきかどうかという問題はまた別の問題である。ニヒリストに禁止を要求したところで失うものがない人間にいまさら何を要求するのだ?おそらく彼らは禁止を破壊することに興奮を覚えるだけだろう。しかしそれなら彼らはどのようにして明るく没落するのか。彼ら自身に憎悪を転移させることによってである。つまり彼らの憎悪が、世間から憎悪や軽蔑の目で見返される事によって、自分自身に対する憎悪となり、それによって憎悪が憎悪によって滅ばされるのである。このように自分自身が滅ばされることにニヒリストは喜びを感じ、明るく没落していくのである。だからこそ彼らには同情ではなくなによりも軽蔑を与えることが大切になるのである。彼らを軽蔑せず同情するということは、彼らが、なにかこの状態を望んでいるという風に解釈することであり、これこそは真の愛の欠如であり、ニヒリズムであり、支配であるだろう。もちろん軽蔑しうる資格があるとしての話だが…。例えばブルジョワがニヒリストを軽蔑するようなことを私は認めたりしないだろう。それは単に恐怖から軽蔑しているだけにすぎない…。このような主体を越えてなおも超人ではないと想定される最後の主体それはジジェクが言う次のような主体である。「(…)この主体の特徴は、二重の意味での承認の欠陥である。われわれは、この主体のうちに自分自身を認めることができない。われわれの側からの感情移入というものは成立しない。そして、自閉的な主体は、そのひきこもりのために、コミュニケーションの相手であるわれわれを認めることができない。」「(…)これらの人物像は「死を望んでいる人たちの像であるというより、すでに死んでいる人たちの像である。あるいは、むしろ、奇妙で恐ろしい文法的ひねりをもちいるなら、すでにひさしく死んでいる人たち、死を『経験』した人たちの像である。」」(ジジェク『終焉の時代を生きる』)比喩的に語るのなら、彼らはコンピュータの主体だということができる。西尾維新が『戯言シリーズ』で不完全だが叙述しようと試みた玖渚友の主体である。もちろん彼女はジジェクが記述したほど完璧に終わっているわけではない。だが『サイコロジカル』の次の言葉「きみは終わっている。そして玖渚友も終わっている。これから先、きみら二人は久遠の刻を終わり続けていく。ただ終わっているのではない、終わり続けていくのだよ」が完全に当てはまるような主体なのだ。