風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

思考実験の方法論2

ハイデガーが強調するのは、以下のことである。真の危機は、人類の物質的な自己破壊ではない。つまり遺伝子工学の介入によって、何かきわめて悪いことが起きるだろうという脅威は真の脅威ではない。まさしく何も悪くならないだろうということ、遺伝子操作が円滑に機能することが、真の危機なのである。」(スラヴォイ・ジジェク『パララックス・ヴュー』)
思考することは果たして「正しい」ことなのだろうか。思考しないで行為することは果たして「悪い」ことなのか。ニーチェの方法論、あるいは趣味は思考はどれほどの「悪」をなすことができるのか。もし思考が単に無力であり、抑制する力、あるいは外部からの暴力に反応する力であるだけとするならば、思考の「正しい」野蛮さ、現代の科学技術が苦痛なき生を実現することができるだろう。拷問は―――人生という拷問も含めて―――何か不合理なことになるだろう。というのも拷問とは苦痛を生産するという行為にほかならないからだ。単に情報を引き出すだけなら、自白剤のようなものや、神経伝達を通じたテレパシー、あるいはそれよりもっとたちの悪い「精神分析」によるコミュニケーションこそ最悪の、そして最高のものだろう。それらは等しく人間を思考なき動物への道に導く。アーレントが怒っているのはこの種の野蛮さである。しかし、それとは別の―――思考の野蛮さというものがあるのではないのか。野蛮さへの意志、野蛮であるところの思考というものが。もし人生において苦痛が取り除かれうるのなら、残っている苦痛は、意志の、道徳的意志の苦痛であるだろう。もはや刺激に対して反応する必要がなく、故に憎悪も嘆きも呪いもない、その場合に感謝を、高揚を、喜びを創造するためには何をなすべきなのか。遺伝子工学によるあらゆる生理学的変容を駆使しても、はたしてそのような人間類型は可能なのか?ただ能力が高かったり、天才であったり、聖人であったり、狂人であったり、善人であったり、神であったり、悪魔であったり、怪物であったり、死人であったりすることにどんな価値があるのか。おそらくこれらの言葉はすべて単純な先入観、「人間には価値がある」というものにしたがっているだろう。人間が最も単純なひとつのメディア、実験体である場合に、どんな価値が創造可能なのか。人間自体には価値がないのだから、ただのクローン人間を創ることほど愚かな間違いはないだろう。それはいかなる意味でも何の役にも立たない。手塚治虫が洞察していた通り、クローン人間の使い道は殺すことにしかありえず、それは依然として人間の命は尊いという先入観に基づいている。手塚治虫の「火の鳥」のディストピアはすべて「生命を大切にしよう!」という完全な道徳的認識から生み出された幻想である。人間を殺すこと自体など何の価値もない以上、すぐに退屈がやってくる。我々の日常にどれほど人間を殺すものがあるか少し考えて見ればわかるだろう。人間はそんなに愚かではないのである。無意味な殺人がありうるのは、ただ殺人に希望があると信じている場合にしかありえない。ラスコーリニコフの場合が典型的である。零崎人識ですら、人間の解剖という目的を持たざるを得なかった。もっとも彼の場合は人間を殺すことができないということに悩んでいたのだが。