風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

明るい超人計画

キリスト教道徳に反した人間類型を求めること、つまりブルジョワとは何の関係もない価値基準を持った人間が一般的になるということ、このことが「優生学」と言う言葉でいつも混同され批判にさらされている企てなのだ。マルクスの言うとおりかれらはプロレタリアを犠牲にして生きているくせにあたかも自分たちが人類の代表であり、自分達が没落すると世界は滅ぶのだということを本気で信じさせようとしてくる。しかも実際にそれを実現しようと世界を滅ぼす兵器とシステムを造り出している。彼らは何かナポレオンのように「自分が死んだら世界は滅びよかしと言いたくなるよ」と感じているのではないか?こういったものに対して我々は彼らが安心して明るく没落できるように援助すべきであろう。なぜなら太宰治が言うとおり、人は明るくならないうちは決して没落したりしないからであるし、マルクスの言うとおり歴史は明るい気持ちで決別することができるように彼らに要求するからである。一つ注意しておくがここで言われているのはどの「真理」が一般的になるのかということではない。真理に対する態度が問題なのだ。重要なのは真理に対するキリスト教的な態度がブルジョワの政治経済学的な態度であり、まさにそれゆえにこそ政治経済学批判だけではなく、道徳批判が決定的に行われなくてはならないのだ、ということである。もし政治経済学批判だけが問題なら、そのことを認識していない「形式的無知」の具現である「大衆」かパラノイア的想像である支配者が「悪い」と言うことが問題の全てになってしまう。だからこの態度では「英雄」や「天才」が要請されざるをえない。ニーチェ的な哲学者、あるいは一般的な超人は、これに対してラカンの分析家のような態度をとる。つまり自身が知っていると想定された主体として、キリスト教的道徳の主体を誘惑するのである。分析家は自分自身にのみ権威を持つのであって、真理を権威として持つわけではないから、自身が知識を持っている必要は(究極的には)ないのである。ただし分析家の立ち位置はあくまでブルジョワを明るく没落させるための手段であって、精神分析の理論や分析家の態度が「真理」であるというわけではない。だからある意味では、分析家を「真理」として扱っているインターネットから、立場を奪還することが戦略の一つとして行なわれなければならない。なぜなら分析家の態度において、ラカン精神分析ディスクールは、「下衆」に対しては動物化を行なうだけになってしまうと警告しているからだ。この動物化に対して、詐欺師の態度(あるいはニーチェ的に言うなら誘惑的な芸術家)で理想を「騙って」騙すことが必要になるだろう。つまり要求の次元から欲望の次元に引き上げると言うことだ。美少女ゲームなどがこれに当たるだろう。