風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

天才の発明3

もうこのことは散々説明してきたから省略しよう。わからないのは罪なく消費に意味を与えるための具体的な方法である。むしろそんなものは存在するのだろうか?生成の無垢は存在の絶えざる消費であるといった方が正しいのではないだろうか。つまり生成の無垢の状態そのものが意味の消費であり、消費の意味なのだ。ここで天才はアイロニーとなる。というのは天才は理解されない限り意味として機能されるが、理解されればその人間からに意味を与えることはできなくなるからだ。だがこれでは問いが初めに戻っている。理解されないし意味も与えない天才など天才ではないのではないのか。しかし天才はその生成を認められるためにはみずからそう言うしかなく、だからといって認められない天才が必ずしも天才でないとはいえない。西尾維新の「サイコロジカル」での議論のように天才であることを確信することが天才であることの本質であるのだとしても、天才が天才であると見做されるのは天才以外の人間によってでしかないことにかわりはない。ということはこのことを論理によって記述することはできないというのが正しいのだろうか。そうであるとすれば話し合いの余地は基本的にないことになる。だが話し合う以外の方法は暴力しかない。結局、天才を作ろうとする方法があるだけで、天才を作る方法があるわけではないのだ。では天才の概念を疑うべきなのか。もちろんそれはそうなのだが、そのことには言葉が変わるだけで本質的な意味はない。もちろん天才信仰は拒否されなくてはならないが―――というのも天才を信仰する人間は天才に消費されるために、利用されるために、破壊されるために存在しているからだが―――逆に言うなら、天才信仰は餌としては必要だといえる。しかしこのことは容易に天才を利用してうまくやろうという堕落も産みだす。天才は天災であり事故であり一つの偶然であり煮ても焼いても食えない運命であり、救い難い神聖さである。つまりまったくわからないと言うことだ。天才を政治利用するということは可能なのだろうか?政治的な天才ではなく、天才の政治というものはあるのだろうか。もしそういうものがあるのだとしても、一つの理念として消費されるだけだということにならないだろうか。つまりそれは天才を産みだす運動にすぎず、天才を生産するとは限らないのではないのか。もちろん私は「めだかボックス」のことを考えているが、その政治的解決の失敗が『悲鳴伝』を生み出したのではないのかと考えることもできる。だがそうだとして種を滅ぼすことがどんな選別基準で選ばれるのか、あるいはもはやどんな選別基準でも選ばれようがないのか。つまり民主的にくじ引きで死ぬ人間を決定しようとでもいうのか。「大いなる悲鳴」はすばらしいほど民主的である。そうでなければ事故を祈るのだろうか。ヴィリリオのいう幸運な事故とグローバルな事故の軍事化。「NATOのスポークスマン、ジェームズ・シアは、コソヴォでの付随的被害に関して、「事故という当たりクジを含まない戦争は存在しない」と語ったが、これがどれほど正鵠を得ているか彼は気づいていなかった!」(ポール・ヴィリリオ『幻滅への戦略』)。それとも空々空の選別基準に身を任せるのか。もし、種を滅ぼすことにどんな意味もないのなら、みずからの終末を生産して、滅亡する方法を洗練させるしかやることがないだろう。生成の無垢が説明の余地なく残っているだけだ。