風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

サイバー・ジェノサイド2

感情のない人間とロボットという組み合わせ。人間を殺すのにじつに都合のいい組みあわせだが、人間を殺さないのならロボットにはなんの価値があるのか。人を助けることか?娯楽用品として。殺人の道具が娯楽用品(おもちゃ)になるのはいつものことだが、この殺人道具は人間よりも高い知性を持っているという点が違う。そもそもなぜ人間に判断を求めなくてはならないのかまったく理解できない。ロボットには愚行がないということだろうか。問題は機械に心がインストールできるかということではなく、人間がロボットを人間とは見做さないための許容限度はどこなのかということだ。しかし人間だってロボットではないのか。たとえば人間の身体とまったく違う身体をもった存在に意識が存在できるということになったら、どういうことになるのか。人間の定義は身体の類似性ということになるのか。これは差別なのか?頭が二つある赤ん坊などは人間といっていいのか?いっていいとしたら、どこまでいきつくのか。全身サイボーグだが脳だけは人間のものというのは何か意味があることなのか。もし意識の超越性だけが人間であることの根拠であるとすれば、一体どんな外的規範をもって人間を識別するのか。人間を食べることは人間の規範から何か外れることなのか。それともそれが普通になるのか。意識のある動物以上のものでないとしたら何が人間を保証するのか。「もし人間が馬鹿だというのなら、一体誰が利口だというのだ?」「コンピュータだ!」。コンピュータを操作できるものが人間だということになるのだろうか。赤ん坊はパロールを発しているといえるのか。だがそれ以前の、母親の胎内にいる前の存在は人間なのか?生まれる前からコンピュータと連動している存在については何がいえるのか。人間の概念を廃絶する。こうして人間は家畜へと成長する。人間が家畜になると契約の意味が失われ、等価交換の原理が失われる。しかもこれは奴隷制ではない。「人間」という家畜を育てているだけである。「現実の進歩はつねにより大なる権力への意志と進行という形であらわれ、そしてつねにおびただしい数の弱小な権力を犠牲にすることによって進行されるということである。ある〈進歩〉の大きさは、そのために犠牲にされねばならなかったものすべての量いかんによって測定される。集団としての人類が、個々のすぐれて強力な人間種のために犠牲にされること、―――これこそが進歩というものであろう………。」(ニーチェ『道徳の系譜』)